一章 はじまり、そして悪魔の足跡

01 //従者

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"「妖術(ウィッチクラフト)」はひとつの宗派であり、これは異端である"

 大昔に、そう宣言した教会の神父がいたんだ、とヨナは聞いたことがある。そして、その一言が暗黒時代と呼ばれる穢(けが)れた時代の始まりだったのだ、と。
 大陸全土に浸透するキシュラナという神を奉った宗教。なんでもその宗教に迎合しない人々を”異端”と呼び、魔女と名づけたのだと。
 ……どうしてそういう馬鹿らしいことがまかり通ったのだろうか、とヨナはぼんやり考えた。
 時の権力者っていうのはいつもいつも星の数ほどいる人間の全部の頭を一色に染めようと躍起(やっき)になっている。
 ――思想の統一。それをすることが、一体どれほどいいことなのか。
 生きて、血が流れていて。十人いれば十人分、色々な考えを生み出すかもしれないのに。その考えが、とても素晴らしいものかもしれないのに。
 過去に、魔女と呼ばれた人々はほとんどが無実の罪で殺されてしまった。すべて、普通の人間が。
 少し、汚い言葉ですが、とミルレス先生は話す。
「……”―――――この現世に在る神とは……生けるすべての者の上に等しくある救世主では絶対になく、あの禍々(まがまが)しくも黒き十字の下に集う、卑しい亡者どものみに手を差し伸べる鼻持ちならないくそったれな支配者である。”……理不尽な理由で、生命を奪われることで、偉大な神を信じられなくなった人々も恐らく、少なくない。このような陰惨な過去を我々は、二度と繰り返してはなりません。その為にはよく学ばねばならない」
 首の詰襟(つめえり)まできっちりとボタンを止めて、神経質そうに彼はそう教える。……歴史の授業は退屈で仕方ない。
 吐息を零して窓を白く染めながら、ヨナは透明な硝子の向こう側を見通した。
 ――――午後の教室の中に、肌寒い冷気と見かけだけは暖かい陽の光が、ヨナが見つめる外から差し込んできていた。ヨナはさらにその向こうを見る。
(……”あの、禍々しくも黒き十字の下に集う、卑しい亡者ども”……。)
 それはきっとわたしたちのことだな、と思う。ヨナが見つめる先には、先ほどミルレス先生が読み上げたばかりの”黒い十字”が地を割き、天を突き上げるようにそびえ立っていた。
 あの十字は、この大陸のどこにいても見ることができる。
 大陸の創世の歴史に名を刻む黒き十字架。あれは、ヨナたちが立ち、生活を営むこの大地の中央部分から生えた神の残滓(ざんし)だと聞いた。この大地が神の手から離れた時に残った傷跡。そして、奇跡だと。
 あの黒い十字が大地を刺し貫いている間はこの地が滅ぶことはない。――そう言われているから。自分がもし天を貫けるほどの巨人だったら、一度くらいは抜いてみたい、と思う。
 それは世界がなくなればいい、とかだめだ、とかいうことではなくて、誰もやったことがないことなのに本当にそうだ、と思われていることを実際に確かめてみたいだけだった。
 そこまで考えたところで、自分の真横に誰かの気配が立った。
 教本と数枚の紙片。そして授業の内容を書き取る為の手とペンがのっている机に影が射す。次いで、少し息を震わせたミルレス先生の声がかかった。
「……ヨナ。キミは一体どちらを向いて授業を受けているんですか」
 他の生徒の関心が一斉に自分に集まるのが分かる。ヨナは自分の思考が妨げられたことを残念に思いながらもゆっくりと怒れる教諭に真っ黒な瞳を向けた。腰ほどまで伸びた黒髪が、それに合わせてさらり、と流れる。
「……ごめんなさい。十字が気になったので見ていました」
 答える声は、我ながらずいぶんのんびりしていたと思う。
 その少々間の抜けた声は、神経質な教師の胃をきりり、と締め付けてしまったようだった。
「……キミほどの優秀な成績を持つ生徒が……。そんなことでは示しがつきませんよ。授業の際には、前を向くように」
 腹部を押さえながら、噛み潰した声で言い渡されたことに大人しく「はい」と答えて、ヨナは前に視線を戻す。もう一度息をついたミルレス先生が教卓に向かって、クラスのみんなは何事もなかったかのように授業へと戻っていった。
 ヨナに向かって、「災難だったね」と声をかける者も、授業をさぼっているからだ、と蔑みを向ける者もいない。
 もうここには、ヨナに向かって何らかの声をかけられる者がいなくなってしまったから。
(……涼しくなった……な)
 まとめた長い黒髪を体の片側によせ、ヨナはまた自分の思考に立ち戻っていく。
 考えたのは陰惨な過去の過ちではなくて、ほんの数日前のことだった。

§

「ヨナを、”祓い人”(はらいびと)の従者に……?」
 突然呼び出された校長室で聞かされた話は、ヨナ自身よりも担任のミルレス先生の方がよっぽど驚く内容だったらしい。
 仰々しく、どっしりとした机の向こうで腕を組んだ校長先生は、ただただその栄誉に満足している様子だった。
「首都の大教会に、この度新しく任についた”祓い人”が滞在しているそうだ。ヨナくんは、その祓い人の巡業(じゅんぎょう)の旅に伴う従者の候補として、抜擢(ばってき)された」
「し、しかし、ヨナはこのコラール校としても必要な……その、優秀な」
「そうだ。この伝統あるコラール校の優秀な生徒だからこそ、声がかかったといえるな。なんとも栄誉なことじゃないか、なぁ、ヨナくん」
 どことなく渋った顔をするミルレス先生を不思議そうに眺めていたヨナは、不意にかけられた声にも淀みなく返答する。「――――とても光栄なことだと思います、先生」
 学校一優秀だ、といわれるその生徒がただ単に驚きで思考が止まっているだけだ、ということには当然誰も気づかない。そうだろう、そうだろう、と嬉しそうに頷いて日程の説明に入る校長先生とあくまで複雑そうなミルレス先生は対照的で、自分の行く末よりはむしろそっちの方が気になった。
 ……どうしてそんなに複雑そうで、どうしてそんなに嬉しそうなんだろ。自分のことでもないのにね。
 腹が立つでもなく、本当にそのことを疑問に思って平坦な瞳で二人の教師を見上げるヨナの前に、頼りない一枚の書類が投げられる。
 その右上に幾分かくたびれて茶色に変色した写真が貼り付けられていた。
「…………この人が?」
 その祓い人ですか、と尋ねると、校長先生はそうだ、と答えた。その言葉に頷きながら、ヨナはその人物が映された写真をじ、っと見つめる。
 ――――祓い人。この人が?
 変色した写真ではろくにどんな顔かもわからない。けれど、特徴は掴める気がした。
 肌の色はそう薄くない。自分と同じような、癖のないまっすぐな短髪と、目を覆う(多分、銀縁)眼鏡。着ているのはこの大陸の神父が身につける典型的な修道士の服で、色は恐らく黒だろう。ただ、神の使徒と呼ばれる職業についている割には目が異様に鋭かった。
 何色なのかもわからない目。……ただ、その色が深いのだけはわかる。
 上半身まででちょんぎられたその写真を細かく分けて検分して、ヨナは今度はその全体を見た。
(…………やっぱり敬虔(けいけん)な神父には見えない)
 まるで見ているこちらを冷たく刺し貫くような表情。総合評価。祓い人にしては人相悪すぎ。
 ヨナはその感想を正直に伝えることはなく、「古い写真ですね」とだけ述べた。
「そうだね。だが、随分若いだろう」
 鷹揚(おうよう)に頷いた校長先生は、彼はキミと同じ種類の人間なんだよ、と教えてくれた。
 ヨナは声もなく、頷く。つまり彼は、どれほどそれらしくない姿をしていようとも敬虔なる神の使徒であり、だからこそキシュラナの中で最も尊(たっと)ばれる”祓い人”なのであり――――早い話がヨナの中身とは気が合いそうもない人物だ、というだけのことだ。
「私が、この人の従者になるんですか」
「そうだ。……最もまだ候補、という名がつくがね」
 だが、キミならきっと見事彼の従者に選ばれるだろう。どうしてそんなに自信満々なのだろう、というほどに校長はきっぱり言い切った。「そうでしょうか」とぼそりと呟いたミルレス先生の呟きは彼には届かない。
「ですが、祓い人の仕事は危険なものばかりでしょう。ヨナはまだ……幼すぎはしないでしょうか」
「それがまた更なる名誉となるわけだ。候補に選ばれた者たちの中で、ヨナは最も年齢が低い。そして、唯一の少女なんだからな」
 あくまで心配げな口調のミルレス先生とあくまでその危惧に気づかない校長先生。ヨナはその時になってようやく、自分の担任が自分を心配してくれているんだ、ということに気づいた。
 きっちりと締められた詰襟の下で、彼が動くたびに銀のロザリオが揺れる。彼の生徒になってから初めて、ゆっくりと彼を見た気がする。その顔は、確かにヨナの身を案じて歪んでいた。
ああ、思っていたよりいい先生なんだ。
 ……だけど、自分はこの話に頷くだろう。なんで、って聞かれると困るけど。
 正直この学校が好きでもなかったし、ならどうして来たのか、と言われれば町ではそれなりの財産を持つ両親がそう望んだからであるし。
 ”祓い人”というのは各地を巡りながら悪魔を下し、地に平安をもたらすのだ、というから、少なくとも今より退屈なことにはならないだろう、とそう思ったのだ。
 この、強固な塀で囲われた伝統ある聖コラール・クリシュナ学院という籠の中に、いるよりは。
 もし自分がその祓い人の助手に選ばれなくても、この学院を出るだけの好機(チャンス)はできる。
 頭の中でそこまで考えをめぐらせてから、ヨナは校長に向き直った。
「どうだい、ヨナ君。もちろん、引き受けるだろうね?」
 断定的に予想通りの言葉で尋ねてくる彼に、初めて彼女は笑みを浮かべる。
「――――はい。校長先生」
 それで、ヨナは学院で今最も重要な人物、祓い人の従者候補という存在になったのだった。

 キシュラナ教の経典には、大きく分けて二つの存在がある。
 一つは、祓(はらい)。一つは、穢(けがれ)。
 祓うものが、善。穢れているものが、悪。現在ではそこまで極端ではないものの、古くから根付いている歴史と人の認識はそう簡単には変わらないらしい。
 それゆえ、大陸全土に散らばるキシュラナの教会機関の中でそれなりの権威を持ち、崇められている存在の名を”祓い人”と呼ぶ。
 彼らは常に一箇所には留まらず、民人を苦しめる”穢”の存在、(俗に言う、悪魔だ)を調伏する為に放浪していると言う。が、いかんせんその数が少ない上に、表沙汰にされることが滅多にないので、ヨナが住む程度の町では見かけることはない。
何よりも、「悪魔」という存在自体が、囁かれてはいるものの、あやふやなこの時代の中で、本当にそんな職業が正式に認められているのが不思議なくらいだ。
最も、それは平和な町に住むヨナのようなものだからこそ思うことのようで、巷では、彼らの手を待ってはいられない、と自ら”祓い人”のような職業につく者たちもいるらしい。当然のことながら、正式な職業には認可されておらず、融通が利かないので、民間人としては色々と不便を強いられている、というのが現状だということだった。
 ”祓い人”に任命されるのは、その大抵が名のある神学校で優秀な成績を収めたかちんこちんの神の使徒で、(といっても偏見の入ったイメージかもしれないけど)彼らはその職業に就いた後すぐさま、『巡業の旅』に出かけることになる。
 簡単にまとめて言ってしまえばこの大陸各地に散らばる礼拝堂に参拝する傍ら、悪魔関係で困っている人がいたら助けてあげなさい、という主旨の旅だとヨナは思っている。
 ミルレス先生が言うとおり、危険なものであることに違いはない。
 話が決着して、校長室を出た後も、ミルレス先生は「本当に大丈夫なんですか」、「命に危険があるんですよ」、「貴方ほどの優秀な能力を持った生徒が早死にを」などと、ヨナの実の親以上の心配(実際、ヨナの両親はこの話を喜びこそすれ、とめはしないだろう)を隠そうともしなかったが、そのどれにもヨナはかすかな微笑を浮かべて答えた。「大丈夫です」、と。
 ――――いいんです、先生。ここから出れるのなら、私はどこへ行こうとも、かまわないんです。
 退屈なことに比べれば命の危険もドンと来いだと言ったら、貴方は私を心配もしなくなるでしょうか。
 確かめる気はあまりない。物静かな優等生のままで、彼の記憶の中の自分をそっとしておいてやりたかった。
 ……実は全然そんなものではなく、結構問題児でとんでもない奴なんだと自分では知っているんだけど。
 この学校の居心地が悪いわけじゃなかった。友達もいないわけじゃない。
 けれど、『”祓い人”の従者候補』という言葉にこれほどにも揺るがされてしまう程度の場所や友人関係ならくそくらえ、だと思う(ミルレス先生には汚い言葉、と言われそう)。
 欲しいのは何事もない平穏な日々。そう言ってしまうには自分は変わり者過ぎて、恐らく若すぎるんだろう。
 自分に唯一情を持った声をかけてくれる教師が紡ぐ昔話を聞きながら、ヨナは確かに心を躍らせていた。
 今までは退屈である生活を嫌いだ、と思ったことはない。それは、その中でしか生きていく術がなかったからだ。金とそれなりの権力を持った親に擁護(ようご)されていた自分は彼らの思い通りに動くのが当然だった。それ以外に認められるだけの物が、自分には何もなかったから。だけど。
 ――――『祓い人の従者』。そう呼ばれる権利は、ヨナ自身が初めて自分で得たもののような気がした。この場所を出ることで、今までと違う何かが起こるかもしれない。
 14年間ヨナという名で生きてきて、そう気づいた時に初めて退屈な場所を”嫌い”だと思った。