02 //旅立ち
旅立ちの日はとても簡単にやってきた。
冬季の休暇に入る前の日に、聖コラールの玄関であるそっけない鉄扉の前に立ったヨナを迎えたのは、中年の神父だった。いかにも「俺は来たくもなかったけれどもお役所仕事だから仕方がないんだ」といった風体の神父だった。だが、実はその方がヨナにとっては好意的な対象であるということには気づいていない様子だ。
ヨナの記憶によれば彼は町に建つそれなりに見栄えのいい教会の神父さんで――コラール校から出て行く生徒の歴代見送人だった。首都の大教会の通達などがこの辺鄙な町に届くのも、偏にその教会と聖コラール・クリシュナ学院のおかげであり、こんな片田舎にそんな立派な教会や学院が建っているのはまたこの町の人々の信仰の賜物と言えるかもしれない。――激しくどうでもいいことだ。
灰色の鉄扉の向こうからやってきた最小限の荷物だけを肩から提げたヨナを見た神父は、胸のポケットから出した紙面とヨナの顔をニ往復ほどした後、だみ声で「君が聖コラールのヨナ・ケランジュかね」と尋ねてきた。抑揚のない声で「はい」と答えると、二、三度頷き、「では、出発する」とそっけなく告げて、もう歩き出した。ヨナもついて歩き出す。
見送る者は誰一人としていない。「誰もいりません。つらいから」などと適当につけた見え透いた理由にうんうん、と頷いてその通りに取り計らってくれた校長にはとりあえず感謝を送った。いた方がつらくなる、というのは誇大だが、見送られることが苦手なのは本当のことだった。……なんて言えばいいのか、わからなくなるから。
出会ったときに「こんにちは」はたやすい。けれど、別れる時にはなんと言えばいいのだろう。必ずまた会えるなんて保証もないのに「またね」なんて言えない。「さよなら」はなんだか寂しくて、いっそ交わしたくない気がする。とどのつまりがただの自分の都合だったが、苦手なものはどうしようもなかった。
むっつりと黙ったままの神父の後ろを歩きながら、これといって何の特徴もない道を歩くヨナは、少しだけその速度を緩めてここ数年を過ごした学び舎をそっと振り返った。
…………少しだけ胸のどこかがもやもやとする。感慨というほどのものではないが、ちくりと確かに何かが痛んだ。だが、ほんの僅かばかりのものだったので、いつかこの地に戻ってくることがあるなら、自分はもっと大きな感情に揺さぶられるのだろうか、とぼんやり思った。
そうだといいな、とヨナは思う。だって、自分は別にこの場所自体が嫌いなわけではなかった――。
「……君」
ふと気づくと、前を歩く神父が僅かにヨナの方を振り返りながら呼びかけていた。
そのまた背後を見ていたヨナは気づくのに遅れ、数度目の呼びかけにようやく応える。
「何でしょうか」
少し湿ってぬかるんだ土に足をとられないように気をつけながら、ヨナは相変わらず渋い表情を浮かべたその顔を見上げた。
「君は、今年でいくつになるんだね」
そして、聞かれたことの唐突さに少しだけ驚く。
「――――14歳です」
それを聞くと中年の神父はああ、やはりそれくらいだろうな、と独り言のように呟き、また前を向いた。なだらかに続いていく静かな道は徐々にその幅を狭くし、ぽつぽつと道を行き交う人の姿が多くなってくる。
――――駅舎が近づいている。そこは、ここ数年帰省の際以外には近づくこともなかった場所で、そして境界線だった。
結局それ以後目立った会話も交わさずに駅舎の入り口まで歩いてきた二人は、ところどころが腐って座れば穴があくのではないだろうか、という待合室の木のベンチの前で初めてきちんと向かい合った。
小さく首を傾げるように年配の男を見上げるヨナと、それを見下ろす彼と。
穏やかな雑踏の音に紛れながら、男はただ一言ヨナに聞いた。
「…………君は、祓い人の従者になることを望んでいるのか」
ヨナはその問いに少しだけ目を伏せて、よく考えた。やがて、漆黒の睫をはらって年を重ねた神父に応える。
「私は、自分で選びました。でも、望んでいるのはきっと祓い人の従者になることじゃないです」
もっと、単純で、もっと別のことなんです、と呟くように言った彼女に、神父はそうか、と頷いた。なら、いいんだ、と付け加えられた言葉は、ほんの少しだけ温かいものを帯びているような気がした。
――――汽車がヨナの待つホームへと滑らかに滑り込んでくる。
神父は先ほど紙片を取り出した胸ポケットから今度は一枚の切符と、小さな拳ほどの袋を取り出した。首都へと向かう、片道の切符と、僅かばかりの給資金だった。
「行っておいで。私の役目はここまでだ。この汽車で五つ先の駅で降りれば、君を迎えに来ている首都からの召喚人がいるだろう」
ヨナは黙ってその茶色い紙片と小袋を受け取る。黒い目で一瞬神父をじっと見つめ、微笑んだ。
「ありがとう」
気をつけて、と背後で静かな声が聞こえた気がした。
ヨナはステップを上がり、その直後にがたぴしと音をたてて汽車が戸を閉める。
がたん、と動き出す直前に不覚にも後ろを見てしまい、ヨナはたった一人の見送り役のぶっきらぼうな顔をあますことなく見ることになった。
やがて、それも流れて景色に混じる。
この14年間のほとんどを過ごした土地が抽象的な形になり、窓の外を走り始めるのを見ると、ヨナは体の中のものがきゅ、と縮むのを感じた。
やはり、不安なのだろうか。
初めて感じる感情に戸惑いながら、思う。
(……やっぱり、見送りは苦手だ)
小さな彼女を乗せて、汽車は走る。