03 //うた
『小さな小さな my lady.
わたしのかわいいお嬢さん……』
何の光も入らない、黒い黒い部屋の中。ぽつり、ぽつり、とへたくそな詩(うた)が呟かれていた。
『スープを飲んで、おめかしをして。真っ赤なリボンと白い服』
そこは本当に、とても暗い場所だった。
『微笑む彼女に誰もが喜ぶ。家はどこもプレゼントだらけ』
たった一つだけある格子の窓も、今日は閉じたまま。部屋の中はとてもかび臭く、じめじめとして、灰色の床は信じられないほどに冷たかった。
『小さな小さな my lady. わたしのかわいいお嬢さん……』
静かな静かな部屋の中で、ときおりぴとん、と音がする。どこにも隙間はないはずなのに、どこからどんな風に忍び込んでくるのか、降ってくるそれは小さな 水滴だった。
『みんな彼女をもてはやすのに 彼女はいつもご機嫌斜め』
その雫はたまに運悪く『彼女』の体に降りかかったが、『彼女』がそれを気にする様子はなかった。
もう随分長い間。『彼女』は冷たい床の上に小さく蹲っている。――裸足だった。薄っぺらい服からのぞいた足は黒く薄汚れて、あかぎれが目立つ。
『小さなからだはかざりものだらけ』
『彼女』はそんな状態でうたっていた。小さな声で。とても小さな声で。掠れてしまった哀れな声で。
『小さな小さな my lady. わたしのかわいいお嬢さん……』
この場所に、時間はない。終わりもない。始まりもない。ただ、いつの間にかここにいた自分だけが『彼女』にとって唯一絶対のものだったから。
『彼女』はそんな自分のために、「子守唄」をうたっていた。けれど。
『赤い……リボンに 白い服』
ぷつり。力のない、たどたどしい呟きが唐突に途絶える。『彼女』は、緩慢な動作で膝に乗せていた顔を上げた。
……始まったから。
声高に、伸びるように、そして覆いかぶさるように。
うたが終わった時よりももっと唐突に、生き物のような警報(サイレン)が鳴り響いていた。
虫の羽音そっくりの、低く耳障りな雑音がぶつぶつ、と数秒続いたかと思うと、それは始まる。
足元から這い上がり、頭の先までつき抜け、やがて、からだとこころを上手に少しずつ壊していく。
警戒態勢。警戒態勢。けいかいたいせい。ケイカイタイセイ……。
”外”からの音。
古ぼけて、割れてしまった大きなスピーカーから、同じ言葉が繰り返されている。耳をふさぎたくなるような、人の不安をぐしゃぐしゃにひどくする、警報と 共に。
誰のものでもない合成音。同じなのに、てんでばらばらで、まるで違う言葉 みたいに。濁って、何十にも重なって、そのうち何の言葉だか、もうわからなくなる。ただ、「ああ。何か言っているんだな」と。わずかにそう思えるだけだ。
土と埃をかぶって壊れた拡声器から発せられるそれは、灰色に染まった村と、この黒い部屋にいる『彼女』を、確実に踏み潰していく。
もう少し前までは、慌てて立ち上がって、惑って、叫んで。ぎゅっと身を縮めて目には見えないものから身を守ろうとしていた気がする。何度でも繰り返し た。その行為に何の意味もなくても、無駄と知っても、ただ繰り返した。
だけど、無意味は変わらなくて。だから『彼女』はいつしかうずくまって。
もう、一人だけになってしまったから。
ここには、他に誰もいない。無慈悲な順番のカードが、回ってきてしまった。
――――しばらくして。すべては、ひっそり静まり返る。
『彼女』は、もう一度歌いだす。ぽつり、ぽつり、と歌いだす。
『小さな小さな my lady. わたしのかわいいお嬢さん……』
唄を。せめて唄を。『彼女』はうたう。自分のために。
子守唄は、安らぎの唄。いとおしい我が子をいつくしむ。そんな風に、優しい、唄だから。そう聞いたから。
かつて誰かに教えてもらったその唄を、うたっている。
黒い、二つの双眸で。暗い部屋と、冷たい石の床を見つめながら唄う、「彼女」の頬を一筋涙がつたっておちた。
やがて。黒い部屋の外から、石を叩く、硬い靴の音がする。重たい、それは重たい鉄の扉が開く音が続く。
『彼女』はその音の数を数えながら、膝にのせた顔を身じろぎさせる。
あとは、もう待つだけだと思う。
『スープを飲んで、おめかしをして……』
耳が痛いほどの静けさの中、掠れた声が地面に沈み込む。
ふと、気づいた。
ああ、”外”では雨が降っているのだ。遠くで断続的に続く大粒の水音。その勢いは弱くなり、強くなり。
その音さえも聞こえなくなって、もう一度あのサイレンが鳴ったら。
からから、と鈍く、硬質なものが石の床にすれる音が続く。靴の音が進むたび、一呼吸を置いて繰り返される。それがなんの音かなんて。
『真っ赤なリボンと……白い、服』
うたいながら、『彼女』はまた顔をもとのように伏せた。
こうしていれば、世界には自分ひとりしかいないような気持ちに、少しだけなれるから。
きっと、もう少しだけ自分をだましていられるから。
そして、声高に、伸びるように、そして覆いかぶさるように。
二回目の、伸びきった警報がぷつん、と切れて、静かになったら。
あとは、待つだけ。
――――ねぇ。なにがみえるの?
――――今日は、なにがみえるの? …………ねぇ
『わたしの、かわいい、オジョウサン』
何の光も入らない、黒い黒い部屋の中。ぽつり、ぽつり、とへたくそな詩(うた)が呟かれていた。
『スープを飲んで、おめかしをして。真っ赤なリボンと白い服』
そこは本当に、とても暗い場所だった。
『微笑む彼女に誰もが喜ぶ。家はどこもプレゼントだらけ』
たった一つだけある格子の窓も、今日は閉じたまま。部屋の中はとてもかび臭く、じめじめとして、灰色の床は信じられないほどに冷たかった。
『小さな小さな my lady. わたしのかわいいお嬢さん……』
静かな静かな部屋の中で、ときおりぴとん、と音がする。どこにも隙間はないはずなのに、どこからどんな風に忍び込んでくるのか、降ってくるそれは小さな 水滴だった。
『みんな彼女をもてはやすのに 彼女はいつもご機嫌斜め』
その雫はたまに運悪く『彼女』の体に降りかかったが、『彼女』がそれを気にする様子はなかった。
もう随分長い間。『彼女』は冷たい床の上に小さく蹲っている。――裸足だった。薄っぺらい服からのぞいた足は黒く薄汚れて、あかぎれが目立つ。
『小さなからだはかざりものだらけ』
『彼女』はそんな状態でうたっていた。小さな声で。とても小さな声で。掠れてしまった哀れな声で。
『小さな小さな my lady. わたしのかわいいお嬢さん……』
この場所に、時間はない。終わりもない。始まりもない。ただ、いつの間にかここにいた自分だけが『彼女』にとって唯一絶対のものだったから。
『彼女』はそんな自分のために、「子守唄」をうたっていた。けれど。
『赤い……リボンに 白い服』
ぷつり。力のない、たどたどしい呟きが唐突に途絶える。『彼女』は、緩慢な動作で膝に乗せていた顔を上げた。
……始まったから。
声高に、伸びるように、そして覆いかぶさるように。
うたが終わった時よりももっと唐突に、生き物のような警報(サイレン)が鳴り響いていた。
虫の羽音そっくりの、低く耳障りな雑音がぶつぶつ、と数秒続いたかと思うと、それは始まる。
足元から這い上がり、頭の先までつき抜け、やがて、からだとこころを上手に少しずつ壊していく。
警戒態勢。警戒態勢。けいかいたいせい。ケイカイタイセイ……。
”外”からの音。
古ぼけて、割れてしまった大きなスピーカーから、同じ言葉が繰り返されている。耳をふさぎたくなるような、人の不安をぐしゃぐしゃにひどくする、警報と 共に。
誰のものでもない合成音。同じなのに、てんでばらばらで、まるで違う言葉 みたいに。濁って、何十にも重なって、そのうち何の言葉だか、もうわからなくなる。ただ、「ああ。何か言っているんだな」と。わずかにそう思えるだけだ。
土と埃をかぶって壊れた拡声器から発せられるそれは、灰色に染まった村と、この黒い部屋にいる『彼女』を、確実に踏み潰していく。
もう少し前までは、慌てて立ち上がって、惑って、叫んで。ぎゅっと身を縮めて目には見えないものから身を守ろうとしていた気がする。何度でも繰り返し た。その行為に何の意味もなくても、無駄と知っても、ただ繰り返した。
だけど、無意味は変わらなくて。だから『彼女』はいつしかうずくまって。
もう、一人だけになってしまったから。
ここには、他に誰もいない。無慈悲な順番のカードが、回ってきてしまった。
――――しばらくして。すべては、ひっそり静まり返る。
『彼女』は、もう一度歌いだす。ぽつり、ぽつり、と歌いだす。
『小さな小さな my lady. わたしのかわいいお嬢さん……』
唄を。せめて唄を。『彼女』はうたう。自分のために。
子守唄は、安らぎの唄。いとおしい我が子をいつくしむ。そんな風に、優しい、唄だから。そう聞いたから。
かつて誰かに教えてもらったその唄を、うたっている。
黒い、二つの双眸で。暗い部屋と、冷たい石の床を見つめながら唄う、「彼女」の頬を一筋涙がつたっておちた。
やがて。黒い部屋の外から、石を叩く、硬い靴の音がする。重たい、それは重たい鉄の扉が開く音が続く。
『彼女』はその音の数を数えながら、膝にのせた顔を身じろぎさせる。
あとは、もう待つだけだと思う。
『スープを飲んで、おめかしをして……』
耳が痛いほどの静けさの中、掠れた声が地面に沈み込む。
ふと、気づいた。
ああ、”外”では雨が降っているのだ。遠くで断続的に続く大粒の水音。その勢いは弱くなり、強くなり。
その音さえも聞こえなくなって、もう一度あのサイレンが鳴ったら。
からから、と鈍く、硬質なものが石の床にすれる音が続く。靴の音が進むたび、一呼吸を置いて繰り返される。それがなんの音かなんて。
『真っ赤なリボンと……白い、服』
うたいながら、『彼女』はまた顔をもとのように伏せた。
こうしていれば、世界には自分ひとりしかいないような気持ちに、少しだけなれるから。
きっと、もう少しだけ自分をだましていられるから。
そして、声高に、伸びるように、そして覆いかぶさるように。
二回目の、伸びきった警報がぷつん、と切れて、静かになったら。
あとは、待つだけ。
――――ねぇ。なにがみえるの?
――――今日は、なにがみえるの? …………ねぇ
『わたしの、かわいい、オジョウサン』