一章 つぼじじいの話

01 //強襲

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 いつの時代も、小学生の年頃っていうのは怪談話の類が好きなもんだな、と谷津耕三(やづ・こうぞう)は思った。
 いや、何も小学生に限らない。人は、自分の心を揺さぶるものや刺激を与えるものをいつも探すものだと思っている。外部から与えられる何かによって笑ったり、怒りを感じたり、涙を流したり、恐怖を感じたりすることが好きなのだ。
 そのどれを感じたいかどうかが、人によって違うだけだ。大人も子供も。
 けれども、そういった存在に一番近い場所でいて、心の底から素直に関わりたいことに関わって、ちょっとした騒ぎを起こしたりすることは小学生くらいの年齢の連中の特権だ。少なくとも耕三が思うには。そして、耕三がいわゆる「その年」に熱狂したのはやはり怪談だった。学校自体がそれに熱狂していたと言ってもいい。耕三が覚えている限りでは、何年かに一度、そういう時期が訪れる。
 だから、道の途中なんかでふと、「俺の学校の花子さんが」なんて言葉を偶然聞きつけた時には、なんだかとても懐かしい気分と共にとても不思議な気分になる。
 自分の中ではとうに過ぎ去った場所にいる連中を眺めて、うらやましいような、寂しいような。流れる時間が違おうが、そこにいるのが自分でなかろうが同じような言葉を口にするものがいる。それは通過儀礼ってヤツなわけか、諸君。
 そんなことを思いながら、その最中(さなか)に自分がどれほど楽しかったか、夢中になっていたか、とか、そういうことを思う。そしてそこを通り過ぎればもう結構すぐに忘れてしまったりするものだ。
 相手が、何のかかわりもない小学生であるなら、の話だが。
 長い前置きになったが、つまり耕三は強襲を受けていた。
 満を持して登場、現役の小学生に。

 その日はたまたま仕事が休みだった。
 何をするでもなく、自分の部屋で「さぁてゲームでもいっちょやろうかな」とぼりぼり頭をかき回していたその時、ちょうどそいつが入ってきた。
 自分以外に誰もいないはずの家で、何の前触れもなくばーん、と開け放たれた扉に思わず間抜けな面でたっぷり十秒はそっちを向いていたと思う。
 立っていた人物の顔を見て、目が自然とまん丸になって、とりあえず出た言葉は「……えぇえ?」という心のこもった不審な呟きだった。
「聞きたければ答えよう!」
「……いや、聞いてはない、と思うけど」
 ふふん、と鼻を膨らませて芝居がかったセリフを叫ぶそいつにモソッ、と言い返す。
「なんだよー。のりが悪いよ、こうサン」
「……コウサンじゃなくて、俺の名前、耕三(こうぞう)っていうんだけど……。あんた、漢字ドリルちゃんとやってる?」
「今日漢ドのテストやったばっかだぞー。明日にならないともうしない」
 そして必要のないところで胸を張り、いいとも言っていないのに、そいつはしっかりと扉を閉めて耕三の部屋に入ってきた。
 学校から家にも帰らず直接やってきたのか、背には黒いランドセルを背負ったままになっている。
 これが現役の小学生で、もう少し詳しく言うと隣の家に住んでいる三年生の坊ちゃんだった。
 名前を高田祐樹と書いて、猪突猛進とか迷惑千万とか読む。
 祐樹はいいとも言っていないのに、八畳ほどある畳床にランドセルを下ろすと、自分が過ごしやすいように、早々と耕三の愛用の椅子からドーナツ座布団を引き下ろして座ってしまった。そうして、得意そうな顔をこちらに向けて「何しに来たか聞いてもいいぞ」、と言う。
 小学生って理不尽だよな……。
 そういう思いを故意に顔に浮かべながら、早くも耕三はまぁ、いっか、と一人納得する。言ったって聞かない相手にくどくどと繰言することほど、効率の悪いことはない。
「で、何しにきたんですか、祐樹(あほ)さんは」
「アホって呼ぶなよ。アホって呼ぶ方がアホなんだぞ」
「なるほど、言い得て妙だ」
 頷きながら、さぁ、架空のカジノでばんばん金でも稼ごうかな、なんて呟いてゲームディスクを選ぶふりをすると、「あ、俺もそれやりたいー」と話があるはずの本人がもう目を輝かせて寄ってくる。子供の興味の対象が変わるのはあまりに早い。
耕三はつい、目元を緩ませた。
「……はいはい。それよりも、あんたなんか話しにきたんでしょうが?」
「あ、そうだった」
 突っ込むと、そうそう、それ! と大げさに指差しをして、祐樹はその場に座りなおした。
「本当はクラスのヤツにしか言っちゃだめなんだけど、こうサンには教えてやる。特別だぞ? その代わり俺の手伝いをするんだぞ」
 いかにもありがたく思え、とでも言いたげな小学生に「こうぞう」と訂正して、視線だけ向ける。
「言っちゃだめなら言わない方がいいんじゃないの」
「えー。だってそれならもうできないんだよー。条件があるんだもん」
「条件?」
「そう。こうサンはつぼじじいって知ってるか?」
「ツボジジイ?」
「そうそう」
 言われて、耕三はほんの少し古ぼけた記憶の引き出しを探ってみる。手をつっこんでかき回してみるが、どうにも初めて聞く名詞のような気がした。
「なに、つぼじじいって」
 知らない、と言うと、祐樹はなお一層得意そうな顔になった。思惑通りに耕三が知らなかったことが嬉しいらしい。
 普通なら知らなくて当たり前なのだが、祐樹にそんなことは関係ないのだろう。
「つぼじじいっていうのは」
 祐樹は、できるだけはっきりと「はじまり」について思い出そうとしているらしく、彼にしては丁寧に話し出した。



「おい、見ろよ」
 遊びの真っ最中に誰かがそう叫んだ。よく通る声だったけど、それが誰だったのか覚えてない。けれど遊んでいたやつの中の誰かが言ったことだと思う。
 そこには、自分たち以外に誰もいなかったからだ。
 そこは、たまに祐樹たちが遊び場にしている場所で、元は小さなスーパーだったものをぶち抜いて、ガレージにしてしまった所だった。
 だが、ガレージといっても、そこを使っている車はほんの数台しかなく、大抵中身はがらんどうの広場のようになっていた。
 建物のすべてを打ち壊してしまうのではなくて、スーパーの中身と、入り口にあたる壁と、つるつるだった床だけを剥ぎ取ってしまった形で、下はむき出しの岩肌が覗いている。ところどころはがし残したゴム製の板が残っていたりして遊ぶ子供は足をとられないように気をつけないといけなかった。
 外から見ればKマートという錆付いて今にも落ちそうな看板文字と、色あせた数本の電飾が上の方にまきついているのが分かる。唯一それだけが昔そこがスーパーだったということをひそかに、だけど懸命に主張しているような気がした。
 一歩入り口から足を踏み入れれば中は意外とひやりとしていて、真昼間でも薄暗い闇があるくらいに陽は入り込んでこない。中の方、左側の側面にほんの申し訳程度の窓があったけども、すぐ隣にたつ家のせいでそこからも陽は入らなかった。奥まで入ってしまえば、隅の方はもう本当に暗くて、おかしな虫や何かが隠れていてもちょっとやそっとではわからないような、そんな空気が滞っていた。
 ここを遊び場にする子供たちは、この場所のそんな少し危なげなところが気に入っていた。
 怖がってわざとここを避けるものもいる。親もそういい顔をしない。昼間でも暗がりが手を伸ばしてくるような場所だ、夕暮れ時にはそれはもう気味の悪い場所でもあった。
 だからこそ、ここで遊べるものは臆病者じゃないのだ。
 何か特別なことをしなくても、怖がるものがいるという場所でいくばくかの時間を平気な顔で過ごせることが誇らしい気持ちだった。
 俺は昨日あそこで何時間遊んだ。
 そう口にするだけで、クラスの中ではちょっとした人気者だったからだ。
 その日も、それとまったく変わらないことをするつもりの日だった。
 空は曇り空。一面にたれこめた雲の動きが妙に早足だったのを覚えている。
 ガレージにいつもどおりに足を踏み入れると、こもった車の油と少し埃っぽい空気が混ざり合って、鼻先につん、と匂ってきた。
 冷たい空気の感覚が入れた半身から全身を包み込んでいく。
 ささやかな肝試しの始まりだった。

 しばらくの間油や排ガスがしみこんで黒ずんだコンクリートの上に腰を据えて、適当に過ごしていたそれぞれは誰かの「おい、見ろよ」という声に顔を上げた。少し興奮を含んだ声だった。
 何事か、と声のした方向を探せば向かって右側の壁の傍、いつも止まっているワゴン車の陰から「……なんだ……これ」という声が聞こえてくる。
 祐樹はその時中央あたりでどっかり腰を据えて昨日見たアクション映画の話を手前の洋介としていたから、何事か、と目を見合わせて立ち上がった。
「どうした? 何かあったの」
 そう声をかけながら近寄って行くと、ワゴン車の陰には浩明(ひろあき)がただ一点を見つめて突っ立っている。続いて左奥で落書きをしていた忠志(ただし)が同じような声をあげて駆け寄ってきた。
 四人で集まって、浩明が見ていた壁を見つめる。
「…………なんだ。これ」
 そうして、浩明のように不思議な声をあげることになる。
 浩明が見ていたその先にあったのは、うす黒い壁の表面に青いペンキか何かで描かれた絵だった。といっても、少し奇妙な落書きだ。いい具合に、四人の興味を惹き付けるには十分な謎めいた絵。壁に申し訳程度張り付いていた壁紙がはがれ、打ちっぱなしのコンクリートが顔を出している部分にそれは描かれていた。

 まず目にはいった青。
 とくに手がぶれた様子もなく、しゅーっとなめらかに続く青の曲線と線。
 それらがしがみつきあって、一つの形になっていた。

 見ている目の前にはつぼのように見える稚拙な曲線。
 そこから視線を上げていけば、線は細いつぼの口を形作ってその先から細い首がでていた。
 首だと思ったのはそのさらに上に顔と思われるものがついていたからだ。
 これも本当に子供の落書きのようなシンプルな描き方。
 黒目のない空洞の丸が二つ並んで目になり、その下にやんわりと笑みの形に見える口がある。だけど、目があまりに虚ろだったからとても素直に笑顔だとは思えそうになかった。頭は禿げ上がっている。
 例えるなら、工作の教科書にのっていた「ムンクの叫び」の人が笑っているような。 むしろ口の端だけが何かの拍子でその形になってしまっただけのような。
 卑屈そうで、からっぽの笑み。一番ストレートに言えば不気味な笑みだ。
 さらにおかしいことに、その微妙な口の上にはもう一つ数本の縦の短い線が書き加えられている。これはなんだろう、と思った祐樹は数歩後ろに下がってみて初めて書き手の意図がわかった気がした。――これは髭だろう。
 じっくりと壁に描かれた絵を検分してみたが、やはりそれは「なんだこれ」としかいえない代物だった。けれども、おもしろくねー、とすぐに興味を失ってしまえるものでもない。
 むしろそれはとても強い印象を四人に残した。
 誰かが「何だか気味悪くないか、これ」と呟いて、それに同意する声があがる。思ったよりもずっと大きな絵だった。見ているとどうしてかわからないけど、腹のあたりがむずむずとしてくる。しばらくじーっと見ていたけれども、どんどん嫌な感じの、落ち着かない気分になってきたので、「どっか行こうぜ」と誰かが言い出した。浩明だったかもしれない。
 そうして四人してしばらくガレージの中央に集まってわざとまったく関係のない話を始めたが、やっぱりどうにも落ち着かない。みんなの目がちらちらとつぼから出たじじいのような顔を見ていて、互いに気にしていることが丸分かりだった。
 だからその日はそれで解散になった。
 ガレージの外に出る時には曇っていた空からありえないほどの大粒の雫がたくさん降り注いできていた。


「それが、つぼじじい?」
「そう、それ。だってほんとにじじいに見えるんだもん」
 次の日学校でそう呼ぶことを決めたんだ、という。呼び方なんかどうでもいいだろうが、大勢で一つのものの話をする時には決まった総称がある方が都合がいいのだろう。
「で、そのじじいがどうかしたのか?」
 きっと、暗がりなんかで見れば太陽の下で見る落書きよりもほんの少し気味悪く見えただけのことだろう。この近くにそういうちょっと楽しいものがあるぞ、という。
そういう話か、と見当はつけたものの、とりあえずはそう促してみる。
しかし、現役小学生は耕三が考えもしていなかった方向に話を向けたのだ。
「じじいは、抜け出したんだ。あいつ、生きてるぞ。そんで、イガラがいなくなっちゃったんだ」
それは断片的で、非常にわかりにくい説明の言葉ではあったが、耕三に僅かな興味の芽が飛び出した。どうやら、自分が考えていたような内容とは少し毛色の違う話らしい。そう思い、腰を入れて話を聞こうか、とまさに座りなおした時だ。
「……イガラってさ」

びーーーーーーーーーーーー

「あ。人だ」
家の中を、つんざくような古臭いベルの音が駆け回る。まるで悪漢よけの防犯ブザーのように聞こえるが、れっきとした谷津家のインターホンだ。
随分いいタイミングで人が来るものだ、と首を振り振り、耕三は立ち上がった。下から見上げてくる祐樹は、話を中断させられて恨めしそうに唸っている。
「ごめん。すぐ戻るから。ついでにあんたが好きなカルピス淹れてきてやるよ」
だから勘弁して、というと、祐樹は一転してニシシと笑い、ランドセルから漫画を出して読みふけり始めた。
耕三はそのまま部屋を出て、急勾配の階段に向かう。
年代物の造りのこの黒階段は、上がり降りするたびに木が沈んでミシリミシリ、と音を立てる。とりわけ、よく足が行き来する真ん中の部分は木が剥げて、生肌が見え隠れしている。恐らく、裸足で上り下りすると棘くらい刺さるだろう。改装すればいいのだろうが、あまりその気は起こらない。
耕三は、古いものが好きなのだ。そして、少々変わった嗜好をしていると自負している。
だからこそ、祖父から受け継いだこの家に一人住んでいる。以前、祖父がそうしていたように。
耕三の変わり者気質は恐らく祖父から受け継いだもので、耕三は祖父が好きなものはほとんど何でも好きだった。家の中は、一般的にがらくたと呼ばれるものでいっぱいだ。
まるで警報のようなインターホン。
紙を巻き取るとかの有名な「エリーゼのために」を奏で始める電子仕掛けのトイレットペーパーのホルダー。
手を洗うとどうしてか粘土の匂いが香るかぐわしい石鹸。
かさばるばかりで、ちっとも可愛くも面白くもない置物。

母や祖母がたまにこの家を訪れては、「片付けてしまいなさいよ、そんなもの」と本当に嫌そうにこぼしていくのに、「うん、まぁ、そのうちにね」とやんわり返事をしながら、それを実行したことはない。
きっとこれからもしないだろう。誰かが強硬手段に及ぶまでは。

段を下まで降りると、玄関の濁ったガラス戸の向こうに人影が見えていた。
先にカルピスを入れようか、玄関に出ようか、と考えてしまってから、すぐに玄関に出なくてはいけないことに気づく。
生来、耕三はのんびりとした気性の持ち主なのである。