00 //序章 忌み月

――――その夜は、生き物の匂いのしない、とても赤い夜だった。
 煌々とどす黒い空の上で光を放つ月は、今日ばかりは何故か、ひどく忌まわしく、狂気じみて。その下に広がる黒いアスファルトで覆われた大地は、夜露に濡れて湿り気をおび、ところどころがてらてらと光っていた。
 深い夜を照らす唯一の街灯でさえ、今はどこか苦しげに耳障りな音をたてながら、不規則な明滅を繰り返す。これでは夜を歩く人々は、一体何を頼りに我が家までたどり着けばよいのか、戸惑うことだろう。

 ……それならば、いっそ、溢れかえる恐怖などは道連れにいかがかな。
 さして寒くもないのにゆったりとした黒のロングコートを羽織り、一つの街灯の下に立っていた男は、半月型にあげた口の端ばかりが目立つ、嫌な笑いを浮かべて、その空を仰いだ。
 手には、古ぼけた黒い箱を一つ、大事そうに抱えている。

 あけてくれ……。はなしてくれ……。

 そして、その箱から低いような、高いような。何とも表現しにくい、うめき声がもれ聞こえているのを確かめ、男はもう一度笑った。
 口の端を限界まで引き上げて、半月型に開かれた口の合間から意外と切れに並んだ歯列が見える。
「今日は……うってつけの日なんだよ。ほんとうにねぇ」
 そう呟き、手元の箱をいとおしそうに一撫ですると、男はコートの裾をはたはたと翻しながら、歩き出した。
 赤く輝く忌み月だけが、その姿を見るともなしに見下ろしていた。