01 // 一章 おとろしさん


『お頼み申す』
 突然に聞こえたのは、けっして自分のものではありえない野太い声。
(……知らん奴の声やなぁ)
 起きぬけの、ひどくぼんやりとした頭で、四郎はそう思った。
 昨晩、寝る前にきっちりと閉めたカーテンのわずかな隙間を縫って、差し込んできた光が静かに朝を知らせている。その光が白い天井に、まるで海のような模様を刻んでいるのを不思議そうに眺めながら、あたりに視線を流した。
 見慣れた部屋は特に日頃となんら変わりなく、一枚窓を隔てた外では、聞きなれたすずめの暢気なさえずりが響いていた。
 枕元に据えた目覚まし時計をつかまえてみると、時間は朝の七時を少し過ぎたところ。もうそろそろ起きる時間だ。それで目が覚めたのだろう、と検討をつけたものの、やはり解せなくて首を捻る。
(今さっきの声は……? それに腹の上がめっちゃ重い)
 まるで子泣きじじいを二、三匹乗せているようなこの重量感。
 ぼさぼさの頭をがしがしとかき回しながら、よいしょ、と起き上がろうとしたが、それもできない。
 勢いをつけて起き上がる為に、気合をいれてふん!、と掛け声などかけてみたが、やはり無理だ。
 仕方なく目だけを動かして、自分の腹の辺りを見た四郎は、一瞬思考を停止させた後、ようやく納得した。
 そこにはついさっきの声の主であり、起き上がれない原因でもあるだろう物体がでん、と腰を据えていたのだ。
(…………でっかい蛙やなぁ)
 全長は約二十センチほど。見かけにしては、重さの方が尋常ではないのが少し気にかかる。いま、まさに表の溝から這い出てきたかのように、朝日を受けてぬらり、と光るその生体に、四郎は首を鳴らしながらため息をついた。
 なぜ、こんなものが自分の腹の上に乗っているのか、とか。
 なぜ、蛙が人間の言葉を話すのか、とか。
 そういった無駄なことはあまり考えない。ただひたすらに面倒そうな声音で、彼は目前に見える奇妙なものに向かって呼びかけた。
「ちょっと、起きたいねんけど。ひとまずどいてくれへんか」
 ――――一般的に見て、ひどく異常に見える朝の光景に対する第一声としては、似つかわしくない一言ではあった。
 だが、これが四郎の日常であるのだから、それも仕方のないことだ。

 四郎には、幼い頃から普通の人とは違うものが、当たり前に見えた。
 実家が寺であることが関係しているのかどうかは定かではないが、とにかく嫌というほどに見えた。
 それは時に、形を作れないものが、形あるものの姿を借りて歩き回っている姿であり。死んだばかりの誰かが、何の不自然さもなく角のタバコ屋でタバコを買おうとする姿であった。……人がつまずいたその足元にうずくまっている奇妙な姿の生き物。背が重そうに身をかがめて歩く老人の背中にべったりとはりつく、口だけが大きな異形。ひょい、と覗き込んだゴミ箱の中から、人が四郎をじっと見上げていることもあった。
 幼い頃。四郎は、そういうものが恐ろしくて仕方がなかったし、そうしたものが見える自分が嫌で、憎らしくて、呪わしかった。極力そういうものを見ないように視界を狭めたり、見えないものが見えたことを他人にうっかりと漏らしたりすることを自分に厳しく律しなければならない。それが毎日、四六時中続く。
 なぜ、自分にこんな目がついているのか。自分がこんな目にあわなければいけない理由はなんだ。
 そればかりを考えていた。そんな時、四郎に生きる術をくれたのは、寺を切り盛りしている住職である、祖父の源次郎だった。
 彼のその時の言葉だけは、今でもはっきりと覚えている。
『四郎。見えるものは、しゃあないんや(仕方がない)。怯えてても、どうにもならんわな。他人と違う自分のことを、可哀想がってたらあかんぞ。見ようがなにしようが、どん、と構えるんや。両側を見て生きることも、片側を見て生きることも。結局同じことなんやからな』
 すべては思いようだ、と源次郎は言った。自分を哀れむよりも、楽しむ方法を模索できる人間であれ、と。
 祖父の言った言葉のすべての意味はわからなくても、四郎はその言いつけを真摯に理解しようと努め、守った。
 はじめは、うまくいかなかった。それでもやった。自分が生きていく為だった。
 繰り返し、繰り返し、なんとか、今では四郎も自分なりの生き方を少しずつ、身に着けつつある。一般の人々が生きる現(うつつ)と、ほんの一部の人間の目にだけうつる現。二つの世界を両目で見ながら、少々非日常ではありながらも、なんとか毎日を送っている。
 ……それでも。こうしてたまに思い出したように奇妙なものが自分に接触してくることだけは、いかに四郎でも避けようがなかった。
 彼らは、彼らの存在を認めてくれる者を求め、自然と惹かれて集まってくる。そういう、因果な生き物らしい。

 巨大な蛙は、意外と素直に四郎の腹の上から降りた。
 その途端、四郎の体は自由を取り戻してあっさりと動くようになる。
「……寝起きの気分最悪や」
 起き上がりながら大きく息を吐き、じろり、と蛙をにらみつけたが、蛙はそ知らぬ顔で口のあたりを膨らませたり、しぼめたりを繰り返している。そして、時折思い出したように『お頼み申す』という野太い声を吐き出しては、黙り込んだ。
「一体、何を頼みたいねん、俺に」
『…………』
「こら。ものを言わんとわからへんやろ」
『……お頼み申す』
「だから何を」
『…………』
「おまえ、でっかいなぁ。食用蛙か?」
『断じて違う』
「お頼み申す以外もしゃべれるんやないかこら、なめとるんか、キサマ!」
 だんだんと学校に出かける時間も近づいてくるというのに、巨大蛙は頼みごとがある、と繰り返す割に、用件を切り出さない。
 制服一式に着替えている間、なんとなく続けていた押し問答にも限界が来る。怒る、というよりはもはや面倒くささが顔をだしてきた四郎は、とりあえず当面害はなさそうやし、と決め込んで巨大蛙を残したまま自分の部屋の扉を閉めた。背後で慌てたような気配とともに聞こえてきた「げろげろ」という抗議には、あえて気づかないふりをしてやった。


階下に下りると、台所の方から味噌の煮えるいい匂いが漏れ出ていて、冬の初めの肌寒い廊下をほっこりと包み込んでいた。
四郎はその匂いに目を細めながら、台所へのドアを開ける。
「おはようさん」
入り際に一言呟くと、銀色に光る流しに向かっていた母親の博美(ひろみ)が振り返って「おや」と呟く。続けて快活な声が飛び出した。
「あんた、いつもより遅いじゃないの。だらだらしてると遅れるよ、学校に」
この家では、嫁である母だけが標準語で話す。もう関西圏に嫁いできて十何年がたとうとしているというのに、歯切れよく飛び出す博美の言葉はまったくそれに染まる気配はない。ある意味見事なものだ、と四郎はいつも思っている。
「別に、俺のせいとちゃう……」
さらにげんなりしながらも、一応ぼそぼそと弁解するが、当の博美はもう気にした様子もなくまた流しに向かって鼻歌を歌いながら洗い物を再開していた。
「じいちゃんは?」
「朝のお勤めだよ。あんたと違って早起きだから」
何気なく尋ねるとあっさりと切り返された。まぁそうだろう、と頷いて、四郎は自分の席に腰を下ろし、炊き立てのご飯と、いい香りのする味噌汁を空腹な腹に流し込む。そうしながら、何となく源次郎のことを考えた。
寺の住職である藤田源次郎の朝は早い。今年で還暦をいくつか越した年になるが、眩しくもつややかな額と頭以外は若い者にも負けないほどの生気に溢れている。
先だっても町内会の温泉旅行とやらで、とある旅館に出かけた際に、お遊びピンポン大会で見事優勝を納めたらしかった。いまどきピンポンが置いてある旅館も旅館だが、還暦を過ぎたような老人ばかりでそんな大会を開く奴らも奴らである。
聞いた時には鼻で笑ったものだが、息災なのはいいことだ。
なんとなく人や妖怪の行動に流されて、面倒ごとに巻き込まれやすい四郎に、「くだらんもんにばかり関わるな」と怒鳴りつけてくれるあのだみ声にはまだまだ健在でいて欲しい。
そう思いながら味噌汁の最後の豆腐と揚げを熱々の汁と一緒に飲み干した四郎は、ごちそうさん、と博美の後姿に告げてそそくさと家を出た。

まだ冬の初めだというのに、家の外はすでに白い息がそこかしこで空気に混じるような寒さだ。
これじゃあ先が思いやられる、と制服の上に羽織ったコートの襟を手で押さえながら、四郎は寒そうに突っ立った仰々しい門をくぐる。
くたびれたスニーカーで踏んだ地面は、意外と柔らかく、湿った砂利がくぐもった音をたてた。
四郎はそこから数歩歩いて寺の真ん中をどん、と突き抜ける石畳が敷かれた中央まで行くと、うん、と背伸びをする。
「いーい天気やなぁ、おい……」
ついでにそう漏らして背後にこじんまりと建つ我が家と、左側に堂々と建つ寺の本堂を交互に眺めた。
住居と寺の本堂は一応わかれてはいるが、敷地的には同じである。それだけに、こうして並んでいるところを見ると妙に近代的なつくりの我が家と、古めかしく、厳粛なたたずまいを見せる本堂とが隣接している姿は珍妙な眺めだった。
もっとも、四郎にしてみれば見慣れた風景なのだが。
しばらくそうして朝の境内の空気を存分に味わったあと、四郎は誰に言うでもなく「いってきます」と呟いて通学路へと歩き出す。
その歩調は急ぐでもなく、ゆっくりでもなく。少なくとも、今日はあまり時間がないという学生の歩みとは思えない。
だが、それもいつもの彼のペースであることに間違いはなかった。
どこまでも、自分の基本を崩さない。それが藤田四郎である。
なんとなく目の端に映った空には、一つだけはぐれた雲が緊張感もなく、気ままに浮かんでいた。



四郎が白い息を弾ませて教室までたどり着くと、思ったより時間には余裕があった。
HRが始まるのは九時からだが、四郎のクラスの担任、通称「たもっつぁん」は、(保谷茂という名前なのでたもっつぁんと呼ばれている)良くも悪くもゆっくりとした性格で、大抵は五分か十分ほど遅れてやってくる。ただし、遅れる分、驚くほどに早く終わるので、時間が一限目に食い込むことはない。誰もがそれで問題がないと思っているらしく、このクラスになってから半年がたつけれども、たもっつぁんはいまだ律儀にそのペースを守っているようだった。
ざわざわと落ち着かない人の中を眠そうな顔ですり抜けて、四郎は自分の席までなんなくたどり着く。途中、何人かにかけられた「おはよう」の声には適当な返事を返しながら。
――――四郎の席は窓際で、一番後ろの席になる。
たまたまくじ引きでこの席を引いた時にはそれはもう「やった」と思ったものだが、冬が刻々と近づいてくる今。四郎は自然の厳しさと戦わなければならなかった。
きっちりと閉まっていても忍び込むようにやってくる冷気に体を震わせながら、四郎は軽く身震いをして冷えた椅子に腰を据える。
足が少しがたついている椅子は、背もたれに体重をかけるとぎしり、と軋んだ。
少しうるさくはあるが、こういう椅子には何ともいえない懐かしい味を感じて、結構好きだったりする。そんなことを考えながら前方に目を向けた四郎は、ふ、と自分の机に影が射したのに気づいて自然と上を見上げた。
「よう、藤田。今日は随分ゆっくりだったな」
あまり見慣れない顔が、微かな笑みを浮かべて声をかけてくる。少々面食らいながらも、四郎は声をかけてきた主に「おう」と返した。
一瞬頭の中で、誰やっけ、こいつ、と考えて無意識に首を捻る。
「……なんで首をひねる」
「……いや。最近肩が凝って」
疑わしげに尋ねてくるそいつに何食わぬ顔で答えて、四郎はその背後にもう一人誰かが立っていることに気づく。それで、思い出した。
「…………なんや、二人して雁首そろえて」
見慣れない男の背後に立っていたのは、個人的にはさほど親しくもないものの、家自体が近所の山本和則だった。と、いうことはこの手前の関東なまりの奴は村山浩二だろう。
高校からこちらに引っ越してきた村山と、根っからの関西育ちだけれどもどこか目立たない山本は何故か馬が合うらしく、いつもつるんでいるという話だった。以前誰かが、「あいつら二人の仲良さは並じゃない」と呟いていたのを思い出しながら、四郎は二人の顔を面白くもなさそうに見比べた。
その視線を受けた村山は何が嬉しいのか、急に笑みを浮かべて、たまたまあいていた四郎の前の席に陣取る。山本は所在無さげにしながらも窮屈そうに席の隣に移動した。
大して面識もない二人の男に囲まれて、四郎は窮屈で仕方がない。いよいよ胡散臭げに二人を交互に見る四郎に、村山は少し声を落として囁いた。
「藤田さぁ、『おとろしさん』って知ってるか?」
「…………オトロシサン?」
呟かれた文字の羅列をそのまま繰り返して発音し、四郎は片目をしかめる。
オトロシサン? おとろしさん? ……なんや、それ。
頭の中で数回言葉を並べてみるが、やはり聞いた覚えのない言葉だ。ただ、どこか嫌な空気を漂わせる言葉のような気がした。
そんな自分の中の予感は綺麗に無視をして、簡潔に知らん、と答えた四郎に、だろうなぁ、と答えて村山がにやにやと笑う。
(……なんや、こいつ)
「俺さ、ちょっとおもしろい噂聞いたんだよ。それで、藤田が昔そういうのを見たとか見なかったとかいう話聞いてさぁ。一口のらねぇかなぁ、と思って」
村山の口は饒舌に滑る。何となく嫌な予感がして山本を横目で見ると、こちらも幼いいたずらっ子のような光を湛えた目で興味深げに四郎と村山を眺めていた。
(…………おいおい、まさか)
心中でそう呟きながらも、四郎は注意深く尋ねてみる。
「……そういうのって? 何のことや」
「隠すなって。まぁ、これから説明してやるからよ」
何がそんなに楽しいのか、へへ、と含み笑いを漏らした村山は意気揚々とその得体の知れない『おとろしさん』について話し出した。
……それは、こんな感じの話だった。

§
山際の住宅地って、知ってるだろ。例のさ。高級住宅ばっかりが並んでるところの一角に、ひっそりした、ちょっと気味悪いさ、古い造りの家がいくつかあるじゃん。知らない? まぁ、あるんだよ。……そこの一つがさ、もう随分前から空き家になってるんだ。そこの一角の中でも結構大きい部類に入る家なんだけど、『おとろしさん』はそこに出るって話なんだよ。
――――『おとろしさん』が何か聞きたいんだろ? 心配するな、って今から教えるよ。
いいか? 『おとろしさん』っていうのは、願いごとを聞いてくれる、神様の一種なんだって。――あ、信じてないだろ。なんだよ、その嫌そうな顔は。……いいから。最後まで黙って聞けってば。
『おとろしさん』に会うにはさ、ちょっとした決まりごとが必要なんだ。守らないといけないことがある。いいか? まず最初に、"『おとろしさん』を訪ねるのは月が消えた夜でないとならない"。二つ目。"『おとろしさん』に会うには、純粋な、清められた水と、一掴みの塩がいる"。まず、その二つだ。それを守って、その廃墟の一番奥の……襖が六枚重なり合った部屋に行く。そこで、水を撒きながら、こう言うんだ。
「おとろしさん。おとろしさん。どうかこの願いを飲んでくれ」……
それを、全部で三回唱える。唱えながら、自分がかなえて欲しい願い事を一つだけ。……いいか、一つだけだぞ。心の中でしっかり願うんだってさ。それで最後に持ってきた塩を家まで持ち帰って、玄関に撒いておく。撒く時には、「送ってくれてありがとう。ここが家ですから帰ってください」って言うんだ。
……それで終わり。たったこれだけのことで、『おとろしさん』はその願いをかなえてくれる。
どうだ? なんか面白そうだろ……

§
興味津々、という様子で話を終えた村山の顔を、四郎は半眼で正面から見やり、きっぱりと「面白くないわ」と言い切ってやった。
…………嫌な予感がすると思ったら芸のない。ほんまにそういう話かい。
心の中で毒づいて、ため息をつきながら頬杖をつく。
村山はそんな四郎に一瞬きょとん、と目を丸くしたが、すぐに不満そうな表情を浮かべてなんでだよ、と聞いてくる。
「――――おまえなぁ、その話一体どこで聞いたんや」
「どこって……。ネットだけど。そういう話ばっかり集めてるサイトで、地域しぼって検索できるんだよ。……結構新しい話で、ちょっと話題になってんだぜ」
「つまり、それは都市伝説、ってことやろう。誰が体験したかも確かめようがない。ほんまか嘘かもわからへん。おまけに出所もようわからん類の、いい加減な話や」
反駁(はんばく)しようとした村山を押し込めるように言い切り、四郎は心の底から面倒そうな息を吐く。
「しかもおまえら、それ確かめに行こうとしてるんやろ。……この俺を連れて」
じろり、と交互に二人を見ながら低く呟く四郎に、村山はあっさりと、山本は多少怖気づいた調子で、それでも首を縦に振った。
――――それで、自分に声をかけたのだ。地元の連中なら少なからず知っている。ガキの頃からおかしなものが見えるという噂がある、この俺に。
透けて見えるような二人の魂胆に半ば怒り、半ば呆れ。
おそらく、情報を流したのは山本だ。暇つぶしにうってつけの話を見つけたはいいが、二人だけでは心もとない。そういう時に誘うなら、そういうものに関係が深く、しかも理解のある奴がいい。
つまり、四郎は栄えある霊能力者役に選ばれたというわけ、で。
(……とことん傍迷惑なやつらめ……)
いまや、四郎ははっきりとした敵意さえ持った噛み付きそうな視線で二人にガンをつけていた。
滅多に声をかけてこない奴らが何をぬかすかと思えば。
「俺は絶っ対に行かへんからな。絶対や。決定事項。くつがえらず」
だからさっさと帰ってや、としっし、と手で払う仕草を見せる四郎に、怖いもの知らずな村山が「えー」と不服そうな声をあげる。
「えー、やないわ! なんで俺が自分からそんな胡散臭いもんに、首つっこまなあかんのや、あほぅ」
「藤田ぁ……」
「あかん。なんて言うてもあかんもんはあかんのや。俺は、行けへん。おまえらも、やめとけ」
一言ずつ区切ってはっきりとそう言いきり、四郎はもう話はない、とばかりに椅子から立ち上がる。席の隣に立っていた山本を押しのけるようにして机の脇に抜け、足早に教室の外へ向かった。
――――空気が悪い。そもそもこんな雑念の多いところで、あんな話は恰好の"奴ら"への餌になる。
肩に、腕に。頭の上にさえもまとわりついてくる雑多なものの気配に、四郎はうんざりした。……せっかく間に合ったが、これではHRどころではない。どこか、空気が澄んでいる場所へ行こう。
そう考えて、屋上に足を向けた四郎の背中に、追いかけるように村山が「HR始まるぞ、藤田」と声をかけてくる。
面倒に思いながらも、四郎はまた一瞬迷った末、振り返って教室から顔だけを出した村山に真面目な顔で言った。
「……村山。さっき言った『おとろしさん』とかいうやつやけどな。……ほんまに、そういうのには面白半分に近づかん方がええぞ。――――もし、ほんまにそいつが願いを叶えてくれる"なにか"やったとしたら、なおさらや。そいつはきっと願いを叶えるだけやない。その先のものを望んでる、けったくそ悪い何かや」
山本にもそう言っとけ、と静かに呟いて、四郎はよれよれに踏み潰した上履きの踵をかぽかぽと鳴らしながら、徐々に騒がしさの減っていく廊下をゆっくり歩いていった。
村山はそれを何となく見送りながら、四郎が呟いた言葉を頭でもう一度呟いてみる。
『そいつはきっと、願いを叶えるだけやない。その先のものを望んでる――――』
「……何、言ってんだ、あいつ」
胸の中に小さく芽生えた不安を「馬鹿らしい」という言葉と一緒に塗りこめて、村山は教室に戻った。
席についてまもなく教室にのんびりとやって来たたもっつぁんが読み上げる出席簿の名前を不機嫌そうに聞きながら、「藤田」、と呼ばれた瞬間にびくり、と震えた自分の体が、妙に忌々しい、と思った。