02 // 二章 奇妙な男
1
自分の部屋を開けた途端、四郎は帰り道で買った吟醸肉まんを危うく落としそうになった。
「…………でかい」
目に入ったのは、今朝部屋に置き去りにしたきり半ば忘れていたあのでかい蛙がでん、とベッドに座っている姿。ただし、朝よりもさらにでかくなっている。
全長で二十センチほどだった蛙は、いまや子豚ほどの大きさになって口の下をふっくらと膨らませ、驚きで呆けている四郎をじろり、と見やった。
『…………話の途中で退席するとは、褒められた行いではありませんな』
何たる無礼。のっそりとした声でそう呟く。
まさかこいつ……朝からじっとあそこで待ってたんか。
そのことにも驚きながら、四郎はとりあえず吟醸肉まんを持ち直し、体を部屋の中に入れる。
「無礼て、お前……。何回聞いても"お頼み申す"しか言わへん奴にそんなに付き合ってられへんやろ」
そうして呟かれた内容に反論しながら、冷たい風が吹き込む出口を閉めた。
最初の衝撃が薄れたわけではなかったが、理不尽な言い分にはとりあえず反論するのが彼の常である。
『それは貴殿が"応"と申されぬからだ』
「内容聞く前から誰が"おう!"なんて言うか」
『なんと……お心の狭い。器の小ささは災いを呼ぶのですぞ』
「勝手千万なことを堂々と抜かすな……」
一見丁寧な口調を装いながら、その実ひどく自分勝手なことをのたまう巨大蛙に切れのいい突っ込みをいれながら、四郎は背負っていた鞄を無造作に床に放り投げた。
ありえないものパート2を見た衝撃が大分おさまってきたのを感じながら(つくづく異常なものに慣れてしまったものだ)、吟醸肉まんは机の上に置いて自分はクローゼット前に移動する。
そんな四郎の様子を、蛙はきゅるきゅると目玉をまわしながら凝視していた。
一方四郎も蛙を横目でちらりと見ながら、ブレザーをハンガーにかけ、ネクタイを緩める。
「……それにしても、なんででかくなってんねや」
そして首をかしげながら素朴な疑問を口にすると、すぐに返答は返ってきた。
『陽が沈みましたからのう。我等のような力弱き妖魔は、お天道さまがおいでになられる間は力を奪われておる故、あの程度の姿にしかなれぬのです』
「ほう、なるほど」
そういえばそんなことを聞いたことがある、と納得しながら、四郎は手早く着替えを終えた。
冷めかけの肉まんを掴みとりながら、蛙に向き直る。
「さて」
息をついて深呼吸。
「そんじゃあ、お帰りください」
『げこっ』
ぺこり、と頭を下げて宣言すると、蛙は喉に何かがつかえたような呻き声をあげた。俗に言う、"蛙が潰れたような声"というのはこういう声かもしれない、と肉まんにかぶりつきながら暢気に思う。
『まだ件(くだん)の頼みごとも話してはおりませぬものを!』
憤慨した様子で叫ぶ蛙に四郎はだってなぁ、と呟く。
「内容がわからんようじゃあ、答えようがないやろうに」
『ですから引き受ける、と一言おっしゃっていただければすぐにでもお話いたしますと』
「だからどんなことかもわからへんのに無責任に引き受ける、なんて言われへん、って言ってるやろ」
肉まんの端を少しだけちぎって蛙の前に置いてやりながら、四郎は「人の話は聞かなあかん」と嗜(たしな)める。
目の前に置かれた肉まんの欠片を睨みながら、蛙はむむむむ、と呻いた。いかにも不満そうだ。
――――だが、四郎にしたって引くわけにはいかない。
妖怪相手だろうが、人間が相手だろうが、それ以外だろうが。安請け合いをしたその結果、自分がどんな目に合うかを重々知っているからだ。口で交わす約束は、彼にとってそんな易いものではない。 「ほんまにもう、あんたといい、あの二人といい……。俺のことを便利屋かなにかと間違えてるんとちゃうやろな」
椅子に腰をすえてぶつぶつと呟く四郎の呟きを捉え、じっと肉まんを凝視していた蛙はあるのかないのかわからない首をくりっと動かして四郎を見た。
『二人とは』
「今日学校でも俺に頼みごと……というか、あほなことに巻き込もうとしてきた奴らがおったんや」
『……あほなことではござらぬと言うのに……』
どこか哀しげに呟く蛙を無視して、四郎はさらに独り言を呟く。
「何が、"おとろしさん"や。誰も住んでない廃墟がどうの、ってどう聞いても胡散臭いやないか」
『……おとろし?』
「あぁ。確かそう呼んでたと思うけど」
誰彼かまわず話題にできる話ではなかったが、こいつなら問題なかろう、と四郎は手短に学校で二人に聞かされた話を蛙に聞かせてやった。意外なことに蛙はいたくその話に興味をひかれたらしく、興奮した様子で何度もベッドの上で跳ね上がる。真剣に話に耳を傾けながら、たまに「なんと」「お導きですな」などと意味不明な合いの手を入れては、何か考え込んでいるような仕草をみせた。
そんな蛙の様子を訝しく思いながらも、四郎は閉めの言葉を口にする。
「……とまぁそういうことでや。内容が言われへんなら俺は何ともできへんし、話してくれたところで力にはなったられへんやろうから、大人しく帰って」
――――陽は、すでにとっぷりと暮れていた。そろそろ、階下では夕飯の準備が始まったのか、なんとも言えず、いい匂いがこの部屋まで流れてきている。
今夜の夕食は焼き魚だろうか。そんなことを考えながら蛙を見やる。
一人と一匹はしばし向かい合って沈黙の時を過ごし、やがて重々しい口調で蛙が呟いた。
『いや、しばらくここに置いていただくことにした』
「…………はぁ?」
四郎は一瞬耳を疑う。いかにも嫌そうな顔で蛙を見たが、蛙はすでにそ知らぬ顔で、のっそりと頭を下げた。
『殿。しばらくご厄介になり申す』
「…………との?」
誰が殿や、と心で突っ込みながら、四郎はもうなんと言っていいかわからず、情けなそうに呟いて、天井を仰いだ。
ベッドの上では、居候を決め込んだ大蛙が先ほどもらった肉まんを嬉しそうに食(は)んでいた。
2
壁にかかった柱時計が九時を打ち鳴らしたのを耳にした村山は、そろそろだな、と予めまとめていた荷物を手近な鞄に放り込んだ。
二リットルのミネラルウォーターと、小瓶につまった塩。
清められた水がこれでいいのかどうかはわからなかったが、これ以上に綺麗な水が手に入るとも思えなかったので、別にいいだろう、と勝手に決め付ける。
元々自分一人しかいなかった家の中をぐるり、と見回して、軽く戸締りをした後、外へ出た。
しんと静まり返ったマンションの廊下に出て、鈍く光る白色蛍光灯の下で鍵をかける。
居並ぶ扉たちはみな一様にむっつりと口を噤んでおり、中からは物音一つしなかった。
――――本当に、ここには家族なんてものが住んでいるんだろうか。
自分以外の生きた存在をどうにも感じられない村山は、そんなことを考える。村山が住むこの階には確か空き部屋はなかったはずだ。それでも、この静けさ。きっと、ここに住んでいるのはうちみたいな家族ばかりなのだろう、と思った。
そもそも、家族団欒というものを何とも思っていない村山の家族が、家にいることは滅多にない。
仕事が忙しいと滅多に帰ってこない父親。趣味は大事だと今日も何かの集まりに出かけた母親。いつ帰っても灯の消えた家が、自分を迎える。それがいつからだったかは、もう思い出せもしないが。
電気をつけるのは、いつも自分の仕事だった。自分のためだけに家に明かりを灯し、やることもなくてパソコンに電源を入れる。インターネットに接続して、思いつくままに電子の海を徘徊して。気づけば、何かに憑かれたように"面白いこと"を探していた。
そして、最近発見した中で一番村山の心を躍らせたのが、地域密着型の噂などを集めた掲示板の一つだった。
自分の身近にある、嘘のような本当の話。俗に都市伝説と呼ばれる雑多な話が、掲示板には毎日腐るほど寄せられる。そんな中で『おとろしさん』を見つけられたのは、もう何か見えないものに引かれたとしかいい様がなかった。
「このヘンで何か面白い話ないかなぁ?」
そう書かれたスレッドの下についたそっけない「RE:」の文字。タイトルはそれだけだったが、名前の欄には闇徘徊、という見慣れないハンドルネームが記されていた。
――――貴方に叶えたい『願い』はないですか。
もしあるのなら、『おとろしさん』を訪ねるといい。たちどころに、貴方は願うものを手に入れるでしょう。
ツリー型のスレッドを開いた瞬間に飛び込んできた、一種異質とも言える奇妙な文章と、『おとろしさん』という得体の知れないものの話。願いを叶えてもらう方法とやらに最後まで目を通して、その屋敷のある場所が明確に知れると、村山は知らずの内に唇の端をめくりあげた。
こんなに心が躍ったのも久しぶりだった。
日頃つるんでいる山本を誘うと、やつもすぐにのってきた。……なのに。
今朝方四郎が言ったことを思い出し、村山はち、と舌打ちをする。あの言葉を思い出すと、どうもこう、気分が悪くなる。
あんな奴、二度と誘ってやるもんか。
本人が聞いたら満面の笑顔で「おおきに」と言いそうなことを考えながら、村山は山本と待ち合わせをしているコンビニへと急いだ。
そんな一連の動作を、闇の隙間からそっと見られていることにも気づかずに。
§
「……おやおや。もう動き出したんだねぇ、あの子は」
屋上のフェンスの上という、ひどく危なげな場所に無造作に腰掛けながら、男はのんびりと呟いた。
――――10階建てのマンションの屋上。
少し体重を前にかければ、またたく間に体は宙に投げ出され、一瞬後には黒く冷たいコンクリートに赤い花が咲くだろう。……それが普通の人間であれば。
男は、見かけからすればどこから見てもありふれた人間の姿に見えた。 しかし、彼にはまったく怯えた様子も無く、手持ち無沙汰げに時折足をぷらぷらと動かして高みの空気をかき混ぜては、だんだんと小さくなっていく少年の後姿を眺めている。
赤い月の夜から数日がたった。男は、相変わらず真冬に着るような長く、黒いコートの裾を風にはたはた、と嬲(なぶ)らせ、口元だけに作ったような笑みをはりつけて。
まるで空に暗幕でも張ったような、国の始めの闇を持つこの夜を楽しんでいる。それも、心から。
何故なら、男にとってそれはとても懐かしく、心地のよいものだからだ。
夜を歩く村山少年の背は、どんどん遠ざかり、男の視界から消えるほどに小さくなりつつある。その背を目で追いながら、思えば便利な世の中になったものだよ、と男は独り呟く。
"闇徘徊"という名で男が電子の情報網にある書き込みを残してから、今日は僅かに二日がたっただけの日だった。
その初めの新月に惹きつけられた者がもう、ここにいる。実に見事だ。人間とは、よほど暇をもてあましているらしい……。
くっきりと笑みを刻んだ半月形の口で、男はくつくつと低く笑った。
――――いたずらがうまくいった時の子供のような喜び。
そんな幼いともいえる感情が、今の男の心の大半を占めている。
何か面白いことはないか、と探しているのはねぇ。人間だけじゃないんだよ、少年よ。
あの四角くて、眩しい画面を通して感じる人間たちの貪欲な欲求。「刺激が欲しい」、「楽しみたい」、「何か面白いことを探したい」。
素晴らしい、と思った。ならば似たような思いを抱えたもの同士、仲良く遊ぼうじゃないか。
自分のその思いつきにひどく満足して、男は上機嫌だった。
そして、たった今。彼岸と此岸を繋ぐ闇の遊戯は始まったのだ。
「……さぁ。暇つぶしに遊戯でもしよう。…………勝つのは僕かな。それとも、君たちかな……?」
不気味に楽しげな声が空に溶ける。
屋上を吹きさらしていく風が一際強く、激しさを持って駆け抜けた、その後。
月の無い闇色の夜の中。今しがたまでフェンスの上に座っていた男の姿は、跡形も無く消えていた。
――――朝の来ない夜はなく。また、暮れていかない朝もない。
すべては同一のものでありながら、万華鏡の中にある風景のように幾多と姿を変えていく。姿を変えながらも、世界は変わることはない。
光在る限り闇が在り。人が在る限り、それに連鎖した者共も滅ぶことはない。
十一月の初めに、月が欠けて消えた。その忌まわしくも尊くもある日に、刹那の闇遊戯が行われたことを、四郎はまだ知らない。遊びに加わった二人も、その意味は知らない。
彼らが全てを知ったのは、最初の報いが下ったその日だった。
自分の部屋を開けた途端、四郎は帰り道で買った吟醸肉まんを危うく落としそうになった。
「…………でかい」
目に入ったのは、今朝部屋に置き去りにしたきり半ば忘れていたあのでかい蛙がでん、とベッドに座っている姿。ただし、朝よりもさらにでかくなっている。
全長で二十センチほどだった蛙は、いまや子豚ほどの大きさになって口の下をふっくらと膨らませ、驚きで呆けている四郎をじろり、と見やった。
『…………話の途中で退席するとは、褒められた行いではありませんな』
何たる無礼。のっそりとした声でそう呟く。
まさかこいつ……朝からじっとあそこで待ってたんか。
そのことにも驚きながら、四郎はとりあえず吟醸肉まんを持ち直し、体を部屋の中に入れる。
「無礼て、お前……。何回聞いても"お頼み申す"しか言わへん奴にそんなに付き合ってられへんやろ」
そうして呟かれた内容に反論しながら、冷たい風が吹き込む出口を閉めた。
最初の衝撃が薄れたわけではなかったが、理不尽な言い分にはとりあえず反論するのが彼の常である。
『それは貴殿が"応"と申されぬからだ』
「内容聞く前から誰が"おう!"なんて言うか」
『なんと……お心の狭い。器の小ささは災いを呼ぶのですぞ』
「勝手千万なことを堂々と抜かすな……」
一見丁寧な口調を装いながら、その実ひどく自分勝手なことをのたまう巨大蛙に切れのいい突っ込みをいれながら、四郎は背負っていた鞄を無造作に床に放り投げた。
ありえないものパート2を見た衝撃が大分おさまってきたのを感じながら(つくづく異常なものに慣れてしまったものだ)、吟醸肉まんは机の上に置いて自分はクローゼット前に移動する。
そんな四郎の様子を、蛙はきゅるきゅると目玉をまわしながら凝視していた。
一方四郎も蛙を横目でちらりと見ながら、ブレザーをハンガーにかけ、ネクタイを緩める。
「……それにしても、なんででかくなってんねや」
そして首をかしげながら素朴な疑問を口にすると、すぐに返答は返ってきた。
『陽が沈みましたからのう。我等のような力弱き妖魔は、お天道さまがおいでになられる間は力を奪われておる故、あの程度の姿にしかなれぬのです』
「ほう、なるほど」
そういえばそんなことを聞いたことがある、と納得しながら、四郎は手早く着替えを終えた。
冷めかけの肉まんを掴みとりながら、蛙に向き直る。
「さて」
息をついて深呼吸。
「そんじゃあ、お帰りください」
『げこっ』
ぺこり、と頭を下げて宣言すると、蛙は喉に何かがつかえたような呻き声をあげた。俗に言う、"蛙が潰れたような声"というのはこういう声かもしれない、と肉まんにかぶりつきながら暢気に思う。
『まだ件(くだん)の頼みごとも話してはおりませぬものを!』
憤慨した様子で叫ぶ蛙に四郎はだってなぁ、と呟く。
「内容がわからんようじゃあ、答えようがないやろうに」
『ですから引き受ける、と一言おっしゃっていただければすぐにでもお話いたしますと』
「だからどんなことかもわからへんのに無責任に引き受ける、なんて言われへん、って言ってるやろ」
肉まんの端を少しだけちぎって蛙の前に置いてやりながら、四郎は「人の話は聞かなあかん」と嗜(たしな)める。
目の前に置かれた肉まんの欠片を睨みながら、蛙はむむむむ、と呻いた。いかにも不満そうだ。
――――だが、四郎にしたって引くわけにはいかない。
妖怪相手だろうが、人間が相手だろうが、それ以外だろうが。安請け合いをしたその結果、自分がどんな目に合うかを重々知っているからだ。口で交わす約束は、彼にとってそんな易いものではない。 「ほんまにもう、あんたといい、あの二人といい……。俺のことを便利屋かなにかと間違えてるんとちゃうやろな」
椅子に腰をすえてぶつぶつと呟く四郎の呟きを捉え、じっと肉まんを凝視していた蛙はあるのかないのかわからない首をくりっと動かして四郎を見た。
『二人とは』
「今日学校でも俺に頼みごと……というか、あほなことに巻き込もうとしてきた奴らがおったんや」
『……あほなことではござらぬと言うのに……』
どこか哀しげに呟く蛙を無視して、四郎はさらに独り言を呟く。
「何が、"おとろしさん"や。誰も住んでない廃墟がどうの、ってどう聞いても胡散臭いやないか」
『……おとろし?』
「あぁ。確かそう呼んでたと思うけど」
誰彼かまわず話題にできる話ではなかったが、こいつなら問題なかろう、と四郎は手短に学校で二人に聞かされた話を蛙に聞かせてやった。意外なことに蛙はいたくその話に興味をひかれたらしく、興奮した様子で何度もベッドの上で跳ね上がる。真剣に話に耳を傾けながら、たまに「なんと」「お導きですな」などと意味不明な合いの手を入れては、何か考え込んでいるような仕草をみせた。
そんな蛙の様子を訝しく思いながらも、四郎は閉めの言葉を口にする。
「……とまぁそういうことでや。内容が言われへんなら俺は何ともできへんし、話してくれたところで力にはなったられへんやろうから、大人しく帰って」
――――陽は、すでにとっぷりと暮れていた。そろそろ、階下では夕飯の準備が始まったのか、なんとも言えず、いい匂いがこの部屋まで流れてきている。
今夜の夕食は焼き魚だろうか。そんなことを考えながら蛙を見やる。
一人と一匹はしばし向かい合って沈黙の時を過ごし、やがて重々しい口調で蛙が呟いた。
『いや、しばらくここに置いていただくことにした』
「…………はぁ?」
四郎は一瞬耳を疑う。いかにも嫌そうな顔で蛙を見たが、蛙はすでにそ知らぬ顔で、のっそりと頭を下げた。
『殿。しばらくご厄介になり申す』
「…………との?」
誰が殿や、と心で突っ込みながら、四郎はもうなんと言っていいかわからず、情けなそうに呟いて、天井を仰いだ。
ベッドの上では、居候を決め込んだ大蛙が先ほどもらった肉まんを嬉しそうに食(は)んでいた。
2
壁にかかった柱時計が九時を打ち鳴らしたのを耳にした村山は、そろそろだな、と予めまとめていた荷物を手近な鞄に放り込んだ。
二リットルのミネラルウォーターと、小瓶につまった塩。
清められた水がこれでいいのかどうかはわからなかったが、これ以上に綺麗な水が手に入るとも思えなかったので、別にいいだろう、と勝手に決め付ける。
元々自分一人しかいなかった家の中をぐるり、と見回して、軽く戸締りをした後、外へ出た。
しんと静まり返ったマンションの廊下に出て、鈍く光る白色蛍光灯の下で鍵をかける。
居並ぶ扉たちはみな一様にむっつりと口を噤んでおり、中からは物音一つしなかった。
――――本当に、ここには家族なんてものが住んでいるんだろうか。
自分以外の生きた存在をどうにも感じられない村山は、そんなことを考える。村山が住むこの階には確か空き部屋はなかったはずだ。それでも、この静けさ。きっと、ここに住んでいるのはうちみたいな家族ばかりなのだろう、と思った。
そもそも、家族団欒というものを何とも思っていない村山の家族が、家にいることは滅多にない。
仕事が忙しいと滅多に帰ってこない父親。趣味は大事だと今日も何かの集まりに出かけた母親。いつ帰っても灯の消えた家が、自分を迎える。それがいつからだったかは、もう思い出せもしないが。
電気をつけるのは、いつも自分の仕事だった。自分のためだけに家に明かりを灯し、やることもなくてパソコンに電源を入れる。インターネットに接続して、思いつくままに電子の海を徘徊して。気づけば、何かに憑かれたように"面白いこと"を探していた。
そして、最近発見した中で一番村山の心を躍らせたのが、地域密着型の噂などを集めた掲示板の一つだった。
自分の身近にある、嘘のような本当の話。俗に都市伝説と呼ばれる雑多な話が、掲示板には毎日腐るほど寄せられる。そんな中で『おとろしさん』を見つけられたのは、もう何か見えないものに引かれたとしかいい様がなかった。
「このヘンで何か面白い話ないかなぁ?」
そう書かれたスレッドの下についたそっけない「RE:」の文字。タイトルはそれだけだったが、名前の欄には闇徘徊、という見慣れないハンドルネームが記されていた。
――――貴方に叶えたい『願い』はないですか。
もしあるのなら、『おとろしさん』を訪ねるといい。たちどころに、貴方は願うものを手に入れるでしょう。
ツリー型のスレッドを開いた瞬間に飛び込んできた、一種異質とも言える奇妙な文章と、『おとろしさん』という得体の知れないものの話。願いを叶えてもらう方法とやらに最後まで目を通して、その屋敷のある場所が明確に知れると、村山は知らずの内に唇の端をめくりあげた。
こんなに心が躍ったのも久しぶりだった。
日頃つるんでいる山本を誘うと、やつもすぐにのってきた。……なのに。
今朝方四郎が言ったことを思い出し、村山はち、と舌打ちをする。あの言葉を思い出すと、どうもこう、気分が悪くなる。
あんな奴、二度と誘ってやるもんか。
本人が聞いたら満面の笑顔で「おおきに」と言いそうなことを考えながら、村山は山本と待ち合わせをしているコンビニへと急いだ。
そんな一連の動作を、闇の隙間からそっと見られていることにも気づかずに。
§
「……おやおや。もう動き出したんだねぇ、あの子は」
屋上のフェンスの上という、ひどく危なげな場所に無造作に腰掛けながら、男はのんびりと呟いた。
――――10階建てのマンションの屋上。
少し体重を前にかければ、またたく間に体は宙に投げ出され、一瞬後には黒く冷たいコンクリートに赤い花が咲くだろう。……それが普通の人間であれば。
男は、見かけからすればどこから見てもありふれた人間の姿に見えた。 しかし、彼にはまったく怯えた様子も無く、手持ち無沙汰げに時折足をぷらぷらと動かして高みの空気をかき混ぜては、だんだんと小さくなっていく少年の後姿を眺めている。
赤い月の夜から数日がたった。男は、相変わらず真冬に着るような長く、黒いコートの裾を風にはたはた、と嬲(なぶ)らせ、口元だけに作ったような笑みをはりつけて。
まるで空に暗幕でも張ったような、国の始めの闇を持つこの夜を楽しんでいる。それも、心から。
何故なら、男にとってそれはとても懐かしく、心地のよいものだからだ。
夜を歩く村山少年の背は、どんどん遠ざかり、男の視界から消えるほどに小さくなりつつある。その背を目で追いながら、思えば便利な世の中になったものだよ、と男は独り呟く。
"闇徘徊"という名で男が電子の情報網にある書き込みを残してから、今日は僅かに二日がたっただけの日だった。
その初めの新月に惹きつけられた者がもう、ここにいる。実に見事だ。人間とは、よほど暇をもてあましているらしい……。
くっきりと笑みを刻んだ半月形の口で、男はくつくつと低く笑った。
――――いたずらがうまくいった時の子供のような喜び。
そんな幼いともいえる感情が、今の男の心の大半を占めている。
何か面白いことはないか、と探しているのはねぇ。人間だけじゃないんだよ、少年よ。
あの四角くて、眩しい画面を通して感じる人間たちの貪欲な欲求。「刺激が欲しい」、「楽しみたい」、「何か面白いことを探したい」。
素晴らしい、と思った。ならば似たような思いを抱えたもの同士、仲良く遊ぼうじゃないか。
自分のその思いつきにひどく満足して、男は上機嫌だった。
そして、たった今。彼岸と此岸を繋ぐ闇の遊戯は始まったのだ。
「……さぁ。暇つぶしに遊戯でもしよう。…………勝つのは僕かな。それとも、君たちかな……?」
不気味に楽しげな声が空に溶ける。
屋上を吹きさらしていく風が一際強く、激しさを持って駆け抜けた、その後。
月の無い闇色の夜の中。今しがたまでフェンスの上に座っていた男の姿は、跡形も無く消えていた。
――――朝の来ない夜はなく。また、暮れていかない朝もない。
すべては同一のものでありながら、万華鏡の中にある風景のように幾多と姿を変えていく。姿を変えながらも、世界は変わることはない。
光在る限り闇が在り。人が在る限り、それに連鎖した者共も滅ぶことはない。
十一月の初めに、月が欠けて消えた。その忌まわしくも尊くもある日に、刹那の闇遊戯が行われたことを、四郎はまだ知らない。遊びに加わった二人も、その意味は知らない。
彼らが全てを知ったのは、最初の報いが下ったその日だった。