03 // 間章 霧雨

それは、とても細かく、さやかな霧雨が切れ間なく降る静かな夜だった。
『…………殿!!』
風呂から上がった四郎が部屋の入り口をまたいだ途端、いつものようにベッドを陣取っていたらしい蛙が(最近こいつはベッドの上にしかいない)、その夜の静けさをけたたましい声でやぶる。
突然飛んできた声の大きさと、気が抜けていたことも相まって、思わず四郎はニ、三歩あとずさる。ついでにバランスを崩して背後の壁にしたたかに頭を打ち付けた。結構、殺人的な音がした。
『何を暢気なことをしておいでか』
いてててて、と呟いて後ろ頭をさすっている四郎に、ここ一週間ですっかりこの家に馴染んでしまった大蛙がなおも急いだ様子で飛んでくる。
「やかましいわ」
四郎は四郎で、どこまでも勝手なことをほざくその頭を軽く踏みつけて自分の頭をさすりながら自室に入った。蛙が小さく『げこ』と呻く。してやったり、という顔で四郎は大蛙を振り返った。
「ほんまにもう、人が風呂でさっぱりしてきた途端にはた迷惑な……。何を騒いでんねん、ななしは」
『ななし、ではござらん、殿』
「し・ろ・う」
何度名前を聞いても名乗らないものだから、四郎は蛙を"ななし"と呼んでいる。そのせいか、蛙も何度訂正してやっても四郎のことを"殿"と呼ぶのだった。
「それで、何なんや、でかい声だして」
水気を含む頭をタオルでがしがしと拭きながらそう問うと、ななしは思い出したかのように答えた。
『そう、それじゃ!』
突然、なにやら不穏な顔つきになり、声を低く、陰鬱(いんうつ)なものに変えるななし。
『門前に暗い気を纏った者が……。殿に、客人でござる』
「…………客人?」
彼にしてはめずらしく神妙で、どこか気鬱げな様子で呟かれたその言葉を、四郎は嫌な予感とともに繰り返した。

§
陽が沈んでからというもの、じわりじわりと冷やされて、すでに真冬のようにぴんと張り詰めた空気と、絶え間なく降る雨がほっこりとした四郎の体温を奪った。
そのあまりの冷たさに羽織ってきた上着の前を掻きあわせ、四郎は門まで歩いていく。
傘は、持っていない。何故か、傘をさす気にはならなかった。
夜には厳重に閉ざしてしまう門は、重厚なそれを背負ってどん、とたっていた。
その脇をすり抜け、四郎は勝手口をあける。そして、外に顔をだした。真っ黒な雨雲だけが支配する空の下、家の前の道路に伸びた街灯は雨に濡れて白々とした光を放ち――――そして、四郎は見つけた。
街灯の光の下にぽつん、と佇む少年の姿。光の中の霧雨がきらきらと反射しながら彼に降り注いでいた。
(…………魅せられたか)
薄く唇を噛み、苦い顔をして、四郎はその少年の方に足早に近づく。村山、と小さく呼びかけて、放心しているその頬を軽く叩いた。
そうされて初めて、村山は四郎の方を向く。
かすれた、力の無い声が四郎の耳を打った。
「……山本が……っ」
そして、それを皮切りに低く押し殺された哀れな嗚咽が村山の喉からしぼりだされた。

――――俺のせいで、襲われたんだ。

――――あいつ、体中傷だらけで
――――食いちぎられた指……、くっつくかわかんないんだ……

四郎は力なく崩れてもたれかかってくる村山を支えてやりながら、「泣くなや」と静かに叱咤する。支えた手とは反対の手で顔を覆って、しのつく雨を仰いだ。
ああ、人間ってものは。どうしてこう、片側の、理解することのできない闇に魅せられて、そして、翻弄されずにはいられないんやろう。  ……触れてはいけないものに、自ら触れてしまうんやろう……?
わざと突き放すように言葉を放ちながらも、どこか案じる心を捨て切れなかった。そんな中途半端な自分の言葉など、二人には何ほどの静止にもならなかったのだ。だが、自分にはあれ以上何もできなかった。それでも魅入られてしまうなら、いっそもう自分には関わってくれなければいいものを。
全ては抱え込めない。自分の身を守って生きるだけで、精一杯だからだ。だが、見てしまえば投げ出せない。人と違うものを知り、見て生きていても、人の心をもっていたいからだ。
どこまでも中立でしかなくて、中途半端な自分。
けど、それ以上にも、それ以下にもなられへん。
―――――真っ暗な空から隙間なく降りてくる雨は柔らかすぎて、いっそ四郎には痛かった。