04 // 三章 闇遊戯


霧雨に濡れ続けて体を冷やしきった村山を家にあげ、四郎は明かりが消えてから随分たったリビングの暖房器具のスイッチを入れた。家の者は、すでに寝静まっている。
ぼう、とした様子で突っ立っている村山の姿を目の端に見ながら、四郎は一時彼の横を通り過ぎて洗面所に行く。母親が洗濯して綺麗に棚に片付けてくれているタオルをニ枚ひっつかみ、一枚は自分の頭にひっかけ、一枚はそのまま持って、今度は自分の部屋まで行った。
とても細い霧雨だったから、四郎自身は軽く拭えば大したことはない程度の濡れ方だが、ずっとここまで傘を差さずにきたのだろう、村山はそうはいかない。日頃自分が部屋着に使っている長袖のTシャツとフリーパンツをクローゼットから取り出してタオルと合わせ、リビングまで戻った。
村山に近づき、差し出すと、彼は促されるままにタオルと服を受け取る。自分からは動かなさそうな村山に「早く体拭いて、着替えとけ。風邪ひかれたらかなわん」と声をかけ、その間に四郎はすぐ隣のキッチンに向かう。
 冷蔵庫から牛乳を取り出して小鍋に注ぎ、滅多にひねらないガスコンロの突起を捻る。ち、ち、ち、という聞きなれない音が数秒続いて、やがてぼ、と独特の青い炎が燃え上がった。それを小さめに操作して温めながら、四郎は冷蔵庫から新たにココアパウダーを取り出す。
牛乳が噴出すでもなく、ちょうどいい具合に煮詰まってきたところでそれを適量入れてやる。手近にあったおたまでそれをかき回しながら、綺麗に混ざり合った薄い茶色が出来上がったところで火を止める。
大き目のマグカップ二つと、小さい湯呑み(じいさんの晩酌用だ)に熱々のココアを淹れて戻ると、
村山はとりあえず着替えを終えたらしく、所在なさげにタオルを抱えてリビングのソファに座っていた。そんな彼にコップを渡してやり、湯呑みは床で神妙に静かにしているななしの前に。
そして村山の向かいに自分の分を置き、四郎も座った。
「…………落ち着いたんかよ」
そっけない口調で尋ねると、村山はあぁ、と頷いた。なるほど、さっきよりは随分ましなようだ、と思いながら四郎も頷く。暢気にココアなど作っていた甲斐があるというものだ。
「…………行ったんやな」
目は合わせずにそう聞く四郎に、村山はまた頷いた。そして、く、と唇を白くなるまでかみ締める。四郎はそんな彼を嫌そうな顔でちらり、と見たが、結局何も言わずに作ったばかりのココアを口に含んだ。
「……塾の帰りだったんだって。犬みたいな、何か獣に襲われたような傷口で……。どこもかしこも傷だらけで……俺は、日頃からあいつと仲がいいから、あいつの母親から電話がきて、すぐに病院に行ったんだ」
話はできなかったけど。
ふとかすれた声を恥じるように村山はマグカップをぎゅ、と握り、初めて一口、口にした。
「……あったかい」
「やろう。俺のお手製やからな」
ようやく普通に喋った彼に安堵しながら、四郎はさっそくで悪いんやけどな、と呟く。
あまり、ゆっくりはしていられない。普通のものには見られないものを見る、四郎の目がそれを語る。
「……おまえ、なんかおかしなものに憑かれてるぞ。それはわかってるな?」
突然核心をついてきた四郎にびくり、としながら、村山は目を見開いて四郎を見た。
「おまえの肩にしがみついてる。なんかの呪(まじな)いごとに縛られた気色悪い黒いもんが。……大方山本もそいつにやられたんやろう。そいつはなんや。お前らがやったことを、俺に話せ」
今更、巻き込まれることは避けようがなかった。村山の背中の呪いごとは生きている。山本は襲われた。近く、村山も同じ運命だろう。
それを知っていて、その何かが来ないうちに追い出すことができようものなら、四郎は初めから手など差し伸べない方がましだ、と思った。残る手は、呪いごとがふりかかる前に、元を叩くしかない。
村山もそんな四郎の覚悟と、考えをその強い目から悟ったのだろう。
先ほどのように泣き崩れたりはせず、ぽつりぽつりとだが、彼は話し出した。

§
人工的な光に包まれた道々に誘われて訪れたそこは、薄暗く、くたびれて苔むしたこげ茶色の木塀にぐるりと囲まれた屋敷だった。
しんと静まり返り、立ち並ぶ屋敷の中の一角に何の主張もなく佇みながら、どこか異質な空気を纏ってそこに在る。――――まるで――――そう、何かを閉じ込めている"檻"のような。閉塞感に満ちたかび臭い匂いを漂わせた、屋敷。
その前に立って、村山と山本の二人は沈黙の数分を過ごした。
待ち合わせのコンビニで落ち合い、ここに至るまで交わしたような昂揚感(こうようかん)に溢れた会話は、今はなく。ただ二人で黙って、人工的な明かりさえもなくなった屋敷の門の前に立ちつくしている。
……気おされる。一言で言えば、そんな心持ちだった。
門の外から覗ける、人が住まなくなって数年がたったという割には、意外と小奇麗な庭先。
戸外に立っているというのに、耳に聞こえてくるのは自分たちの呼吸の音や、ごくたまに身じろぎする音だけで、他には何も聞こえない。いっそ、耳が痛いほどの静寂だった。
ごくり、と喉を鳴らす音が妙に大きく響く。
そうして、こうしていても仕方が無い、ということにようやく気づいた二人はどちらともなく「行こうぜ」と相手を促した。
二言、三言、交わしたお互いの声がかすれていたことは、二人とも知らないふりをして。

外側から見たとおりに広く、かつては人が住んでいたのだろう屋敷の中。
他人が実際にそこで生活を営み、歩いていた。この、暗闇に浮かび上がる廊下を、湿り気を帯びて黒かびに覆われてしまった畳の上を、……そして、自分たちが向かっている六枚の襖の間を。
見知らぬ人間のひどくプライベートな場所を踏みにじっている、という事実の中に、不思議な昂揚感と少しの罪悪感、明確な恐怖があった。
六枚の襖の間は必ず存在する。何故かそう確信しながら進む二人は、びくびくと辺りを伺いながらも異常といえるほど興奮していた。
「……村山。あっちと違うか」
細い廊下の両隣にずらり、と並ぶ数多の座敷。その一つ一つを開けては、もう長い間誰も動かすことの無かったであろう空気を自分たちが動かす。懐中電灯で照らした薄黄色い光の中に、白く積み重なった埃が舞った。

「あったぞ……」
いくつもの閉じられた襖を開け放し、二人はようやく目当ての部屋を見つける。
襖が全部で六枚。いつか林間学校で泊まった寺の大広間くらいの大きさがあるように思える。
……この襖の向こうで、自分たちは。
何と出会うのか。何が、起こるのか。願いは、本当に叶うのか。
そんな幾多もの思いを抱えて、茶色く変色した襖を開け放った。
だだっ広い部屋の中。見つけたのは、打ち捨てられて朽ちた数枚の座布団の残骸。鼠が食らったのか、所々畳がほつれて、場所によっては下の床が顔を出していた。
――――やがて、儀式を始める。
家から持参したペットボトルの口を開き、普通なら到底ありえない速さで鼓動を刻む心臓を押さえつけながら、独りずつ繰り返し、畳の上に水を撒く。
 
おとろしさん、おとろしさん――――どうかこの願いを飲んでくれ
おとろしさん、おとろしさん……

二人の声がばらばらに。時には唱和して、薄暗い部屋の中に異常に大きく響く。
その自ら出している声にさえ怯えながらも、二人は儀式をやめようとはしない。
ぴしゃり、ぴしゃり、と撒き散らされる水は徐々に畳に染みこんで、やがて腐りかけた床に届き、それさえ通り抜けて縁の下の柔らかな土を濡らした。
床の下で、かすかに水が伝い、流れる音がする。
ぴしゃり、ぴしゃり。
言葉を唱えるのは三度。
今はもう二人とも黙り込み、残る音は撒かれる水の濡れた音だけだった。
――ぴしゃり、ぴしゃり。
ぴしゃり、ぴしゃり……。
心の中で貪欲に叶えたい願いを唱えながら、二人は黙々とペットボトルが空になるまでその作業を続けた。
……廃墟の中で。こんな、誰も住まなくなった、他人の家の一室で奇妙な行為を続ける情熱。
自分たちを包む、形容したがたい狂気に気づきながら、結局二人はそれをやめなかった。
屋敷でやるべきことを全てすませた二人は、一様に満足した気分と、何かとんでもないことをしてしまったのではないか、という危惧に苛まれ、何となく、無口なまま家まで帰った。
もちろん、家に入る前には、呪いごとを唱え、持ち帰った塩を撒いて。

§
「……その日はそのまま家に帰って。しばらくは、何も起こらなかったんだ。……それが」
ある日の夜、コンビニに足らなくなったノートを買いに行こうと家を出た村山の前に、一人の男が立ちふさがった。
「黒い、コートを着てた。真冬に着るような、長いやつ着て……靴とかも、黒かった。全身真っ黒い男」
行く手をさえぎられて不審そうな村山を見て、男は細い目をさらに細めて笑った。そして、こう言った。
『願いは叶ったかな』
びくり、として村山は男を見上げた。
男の顔は、変わらず一見人当たりのよさそうな笑顔を貼り付けて、それなのに、どこか恐ろしい感じがする。
『……その様子じゃ、叶ったようだね』
村山の微妙な表情の変化を満足げに眺め、男は一度頷いた。
どうせ叶うはずはないだろう、と半分以上遊びで、あの日願った願い事。とるに足らないものではあるが、それが本当に叶ったその時は、さすがに二人とも気味が悪くなった。
――――自分たちは、やはり触ってはいけないものに触れたんじゃないだろうか。
願いだけを叶えるなんて、そんなことが本当にあるんだろうか。
あの日。新月の日に、四郎から忠告された言葉が脳裏に甦る。
――――そいつはきっと、願いを叶えるだけやない。その先を望む、けったくそ悪い何かや。
心底気味が悪くなった二人は、その日自分たちが行った小さな遊びをなかったことにしようと決めた。……それなのに。
どうして、二人だけの秘密であった行為を知る男が、今になって現れるのだろうか。
激しい動悸が、村山を襲った。
『……おや。随分怯えた顔をしてるね。どうしたんだい……?』
男は、なおも異常に優しげな声でうつむいた村山に声をかけてくる。
『……願いは叶った。あいつは、大喜びだ。願いを叶えた御褒美がもらえるんだからねぇ。思った以上にうまくいって、僕も嬉しいよ』
くつくつ、という、ひどく楽しげな笑い声。
『近い内に、君のところにも行くだろう。先に、もう一人のところに行くかもしれないけどね。……願いを叶えてもらう。その代価を、願ったものが叶えたものに支払う。これが問題なく行われれば、今回のゲームは僕の一人勝ちということになるね。……それはそれで僕にデメリットはないんだが』
男を見上げた村山の瞳に、はっきりとした恐怖の色が浮かぶのを見て、男は顔に困ったような表情を貼り付けた。……上っ面だけの、薄い仮面だった。
『どうにかできるなら、してくれてもかまわない。ゲームにハプニングはつき物だからね? ……それくらいの方が面白いというものだ』
では、お友達によろしく、と紳士然たる声で囁くと、男は現れた時と同じようにいつの間にか消えてなくなっていた。

§
「……あいつが言った通り。山本が……俺より先に……。俺が、誘ったのに……」
悔しげにそう呟く村山を見ながら、四郎は考え込む。
そうしながらふと部屋の隅に目を向けると、ななしが口の下を大いに膨らませて、何か言いたげに頑張っていた。
だしてやった湯呑みのココアはいつの間にか空になっている。
そんな彼に軽く合図をだし、四郎はまた泣き出した村山をそのままに、立ち上がって自分の部屋に上がった。
手早く動きやすい服に着替えて、上から軽めのジャケットを羽織る。そうして、またリビングに戻った。
「藤田!?」
外着に着替えて降りてきた四郎を驚いて見つめる村山をよそに、四郎は小さくななしだけに聞こえる声音で「来い」と告げた。ぴょこん、ぴょこん、と近寄る蛙を確認して、自分はリビングの戸口に向かい――――思いついて、キッチンに行き、塩を一掴みビニール袋に入れる。
改めて、戸口に向かった。
慌てて立ち上がり、そんな四郎についてこようとした村山を振り返って、押し止める。
「あかん。お前はここにいてるんや」
「けど! ……どこ行くんだよ、藤田。あの屋敷に行くんなら、俺も……」
「迷惑や。そんなもん背中に引っ付けた奴連れて歩いたら、俺がどうなるかわからん」
そっけなく言い切りながらも、口調はきつくない。今の四郎にできる精一杯の妥協点だった。
「……なんとか、なるかもしれん。昔、聞いたことがある話をちょっと思い出したんや。せやけど、俺はそういうことの専門やないから、どうなるかわからへんし、お前の面倒もみれん。――そこにいるんや。俺が屋敷についてなんとかするのが早いか、お前が呪いに食われるのが早いか。一世一代の賭けやとでも思うんやな」
分が悪い賭けやけども、と呟き、四郎は少し神妙な顔になる。そうしてうなだれた村山に呟いた。
「――――村山。……二度と、面白半分にこっち側の世界を覗こう、やなんて思うなよ。俺に悪いと思うんやったら、そうしてくれや」
両側を見て生きるのは、確かに不幸なことやないけど、片側だけを見て暮らせるのなら、それだって悪いことじゃないはずやから、とぼそぼそと言い捨て、四郎の背中が扉の向こうに消える。
やがて静かにぱたん、と閉まった扉の音を聞きながら、村山は一人残されたリビングで小さく頷いた。


『殿! 彼奴(きゃつ)と対決するのですか』
「四郎」
相変わらず止まない霧雨の中。
大き目の黒い傘を差した四郎の肩の上で、朝用サイズになったななしがなにやら興奮した様子でそう尋ねてくる。その声のうるささに閉口しながら、四郎は「いや、別に」と答えた。
『なに。ではどうなされるのですか』
「どうもこうも。大してなんも考えてへんもん」
あっさりとそう返す四郎に、ななしは思わずひっくり返りそうになった。
『しかし、先ほど……!』
「あんなんあてずっぽうやん。そうでも言わんとついてくるやろ、あいつ。基本的に俺、見える以外は常人やから、対決なんかしたら十中八九で死ぬしな」
この若い身空で、とあながち冗談でもなさそうな口調で呟く四郎に、ななしはしばし青ざめる。
……このような方に任せてしまってよいのだろうか。
ひどく個人的な悩みについてしばらく考察した後、小さく震える息をついた。
「……くすぐったいからもっと控えめに息せぇや。……それで?」
『は』
突然話を向けられて、ななしは大きな目玉をきょとり、とさせる。
――昼日中ならばきちんと役目を果たしている信号機は、この時間ともなるとどれも怠惰に黄色の点滅を繰り返すばかりで、どれひとつとして機能していない。
夜の道路はまるで四郎の貸切だった。
「は、とちゃうわ。お前さっき、なんか言いたそうにしてたやないけ。なんかわかったんと違うんか」
『ああ、そうじゃ。左様であった』
言われて初めて思い出した様子で、ななしは少々硬い調子の声になる。
『ご学友の話にでた黒いこおとの男とやら。あの男は恐らく噂に聞く使役者だと思われまする』
「……使役者?」
『左様。昨今は我らの世も物騒でありまして。巷では力が同等の妖魔を箱のようなものの中に何匹か捕らえ、閉じ込めるという迷惑な輩が出没しているのです』
「……誘拐?」
妖魔を? と不審げな顔で呟く四郎に、ななしは忙しく頷いた。
『左様、左様。妖魔誘拐事件でございまする』
「…………そりゃあまたハイカラな」
何がハイカラなんだかわからないが、呆れた様子で四郎がそうコメントすると、ななしは憤慨した様子で反論してきた。
『ハイカラ!? 何を、殿、暢気なことを。その者はその箱の中で我ら妖魔を互いに殺し合わせ、残ったもので呪詛を行うのですぞ。どこが粋な行いでありますものか』
興奮した様子で忙しく動く口を目の端に見ながら、四郎はその内容を頭で理解した瞬間、目を見開いてななしを見た。
「……それ。蟲毒(こどく)やないか」
突然頭が自分の方を向いたので、バランスを崩して危うく肩から落ちそうになりながら、ななしはなおも頷く。
『古くはそう呼ばれたと聞いたことがございます。外つ国(とつくに)より伝わり今ではあちら側でも行うものはおらぬと聞く邪法でして……もとは金蚕(きんさん)と呼ばれる虫を使ったと言われます。数匹の虫を壷や箱などの密閉されたものの中に閉じ込め、互いを共食いさせるのです。そして最終的に生き残ったものを蟲毒と呼び、呪師はそれを使って呪詛(ずそ)を行いまする』
「……おとろしさんがそれや、っていうんか」
『おそらく。その男、我らが聞いた姿と、寸分たがわぬ姿でございました。狭いこの町のこと。まさか二人もそのような男が怪しいことをしているわけはありますまい』
「……けど、蟲毒にしてはおかしないか。あれは壷を所有するもんに富を与える、とかやなかったか。そんで、定期的に人を一人殺して与えなければ、主人を食い殺してしまう……」
『左様。そのようです。ですが、あの男が現在行っているものは少々様相が違うのです』
相変わらずあるのかないのかわからない首をしきりにかしげながら、ななしは呟く。
『……殿。もしかしたら彼奴は、新しい呪術を生み出そうとしておるのやもしれませぬ』
「四郎や。……失われた過去の邪法を現在に行うだけじゃ飽き足りず、か? そりゃあまた向学精神旺盛なことで」
吐き捨てるような口調で毒づきながらも、四郎はそうかもしれない、と考えた。だが、それなら、という憤怒が沸いてくる。
思った以上にうまくいってうれしいよ、と漏らしたという男の言葉がずっとひっかかっていた。このゲームは僕の一人勝ちだ、という言葉も。
(……妖と人間。両側の身を弄ぶようなことをしよってから……そいつはそれをほんの暇つぶしくらいに思ってるんや)
「……けったくそ悪い(気分がひどく悪い)」
漏れでた声は、今までで一番低く、静かな怒りが伴う声だった。
声とともに浮かんで消えた白い息の軌跡を追いながら、四郎は肩のななしに目を向けた。
「けど、そういうことなら話は簡単や。その壷だか箱だかを壊せばええ。そうやな」
『……古来に行われた蟲毒となれば、それだけでは拭えぬのですが……。恐らく今回の件はそれで拭えましょう。その男が行っている術自体が古来の術とは違うのですからのう』
うんうん、と頷くななしに、四郎はちろり、と半眼を向け、また視線を前に戻した。そして、呟く。
「ななし」
『はい』
「…………おまえ、妙にくわしないか」
『は』
肩乗り蛙が硬直するのを感じながら、四郎はさらに呟いた。
「……おまえの頼みごとってのは、これか」
『…………』
「図星やろ。それで俺から村山の話を聞いて、急に家に居座ったんや。違うか」
ほとんど断定するように言い切る四郎の声。図星をつかれてしまったななしはぐうの音もでない。
それで、仕方なくこう呟いた。
『どろん』
「どろんやないわ、消えてないし! 最初から正直に言うとかんかい、このどあほぅ」
大不評。矢継ぎ早に責め立てられ、ななしは思わず目を潤ませる。
一方四郎は言いたいことを言ってすっきりとした顔で、屋敷へ続く最後の横断歩道を渡りきった。
――――霧雨は、少し勢いを増したようだった。まもなく、一人と一匹の前に黒く、忌まわしい邪術を地中に埋めた屋敷が姿を見せるだろう。
四郎は縮こまった蛙を肩に乗せたまま、足を速めた。


「あー…………なんて匂いや」
ほどなくして屋敷の前にたどり着いた四郎は、喉までせりあがる嘔吐感に、危うく胃の内容物を残らず灰色の道路にぶちまけるところだった。
……恐ろしいほどの異臭が、屋敷全体から匂い立っていた。
村山が語った、少しかび臭い匂い、などでは済まされない。長く嗅いでいるだけで倒れてしまいそうだ。心底、わからなかった二人がうらやましい。
どす黒い雨雲が空のすべてを覆い尽くしているせいだけでなく、両側の世界をも見通す四郎の目に、屋敷は墨で塗りつぶしたように黒い外観を晒していた。
それは、あたかもこの屋敷の中にあるものの忌まわしさと、近づくことの危うさを示唆(しさ)しているようにも思えた。
それでも、突っ立っているだけでは何にもならない。こうしている間にも、呪詛は動いているのだ。腕で鼻を押さえ、こんちくしょう、と毒づきながら、何とか屋敷の敷地内へと足を踏み入れた。
ふんだんに水気を含んだ下草がじゅくり、と嫌な音をたてる。草が覆いになって、ぬかるみが足を捉えないことが唯一の救いだった。
さしていた黒い傘は、短く生えた庭の雑草の上に置き去りにして、四郎は咳き込みながら玄関までたどり着く。
一歩、玄関の三和士(たたき)に体を入れると、のしかかってくるような重々しい空気の重圧に、くらりと眩暈がした。
「……っ。ななし。なんとかできへんのか、これぇ」
耐えかねて肩の蛙にそう呟くと、『承知』と呟いて彼はふぅ、と小さく息を吸い込む。続けてその口から僅かに不思議に心地よい音が零れでた。
しばらくそのままの姿勢でじっとしていると、鼻が曲がるような異臭と寒気は、随分と和らいだ。
『この屋敷はいまや彼奴の縄張り。私にはこれほどのことしかできませぬが』
「……十分や。おおきに(ありがとう)」
初めてこの大蛙がいることに感謝して、四郎が礼を述べると、ななしは小さく『くるる』と喉を鳴らした。どうやら喜んでいるらしい。
初め現れて居候を決め込んだ時にはなんて迷惑な、と思ったが、こうしてみると案外気のいい奴なんかもな、と思いながら、四郎は軽く息をついた。
「……よし。行くか」
ゆっくりとした動作で注意深く足を上げた板敷きは、四郎が一歩足を進めるたびにぎぃぃ、と耳障りな音で啼(な)いた。それはまるで、四郎の来訪を厭(いと)っているように聞こえた。――否。恐らく、厭っているのだ。
どす黒い妖気の陰が、そこかしこに吹きだまっては、新鮮な生気を放つ招かざる客を飢えた目で眺めている。 おそらく六枚襖の間とやらに収められた蟲毒が、こうした向こう側の者たちを呼びやすい空間を作りあげているのだろう。そして、呼び寄せられた妖魔たちは蟲毒を閉じ込める為の"檻"となったこの家から離れられない……。
時には、わざと自分たちの姿を誇示しようと四郎の後を追って歩く者もいたが、四郎はなんとか気づいていないふりを決め込んだ。――――不用意に、向こう側のものにかまってはならない。こちらが相手の存在をみとめていることをひとたび知られてしまえば、時にそれは凶事(きょうじ)を呼ぶ。
ましてや、俄(にわ)か作りとはいえ、こんな霊場のような場所では。
"見えてしまう自分"を常に律しながら、四郎は左手を壁につけて闇がとごる廊下を歩き進む。
頭の中で村山が語った家の内部と照らし合わせながら、六枚襖の間があると思われる方向を選んだ。
時折、ななしが『そっちではないと思いまする』、『恐らく、こっちでござろう』などと方向を指し示してくれるのもありがたかった。
だが、進めば進むほど、異臭は激しくなり、歩く床もあちこちと腐りかけた場所が目立つようになってくる。
幾つもの座敷を抜け、注意深く辺りを探りながら、六枚の襖を探す。村山、山本の二人がすべて開け放ったという座敷部屋の襖は、何故かすべてきっちりと閉めなおされており、四郎はまたひとつずつそれを開け放たなければならなかった。
『! 殿』
――――どれほどそうして、座敷を奥へ奥へと歩き進んだだろう。
不意に、ななしが緊張した声を上げる。
さすがに呼び方を訂正するだけの余裕はなく、四郎は無言でななしが指し示す方向に顔を向けた。
「……ここか」
そこには、確かに捜し求めていた六枚の襖が並んでいた。やはりここも、きっちりと閉まっている。
異臭は、その襖の向こうから漏れ溢れているようだった。
――――飲み込んだ唾(つば)の音が、妙に大きく響く。
そうして、襖に手をかけようとした、その時。
何の音もたてず。襖の向こうから何かの首がするり、と突きでてきた。
「!?」
思わずぎょ、として慌てて退く四郎を、首についた目(正確には頭にだが)はぎょろり、と追って見る。その眼は異様に飛び出て血走り、ひどく薄気味が悪かった。
『……なんと……! 番犬をおいておるのかっ』
ななしの悲鳴を聞いて、四郎はようやくそれが犬のバケモノなのだ、と知った。それほどに、外見が異様過ぎる。
一目でこれほどの気味悪さを引き出すこの姿は、オカルト映画でも見たことのない類のものだった。
度肝を抜かれた四郎の前で、やがて、首だけだったそれは、開けてもいない襖をぬぅ、と通り抜けてその全体を晒す。
――黒く、巨大な犬だ。薄気味悪く飛び出た目は白く、血走って。四肢を覆う皮はなく、朽ちた筋肉がところどころ骨を見せながら張り付いているだけだった。
「……聞いてないで」
冗談やない、と漏らし、口を押さえた四郎に、ななしも忙しく頷く。
しかし、犬のバケモノはそれを皮切りに、黒かびに覆われた畳を強く蹴って飛び掛ってきた。
声を上げる暇もない。迫り来る薄汚れた牙を目前にして、半ば本能ともいえる動きで四郎は畳に転がった。その拍子に肩に乗っていたななしも畳に投げ出され、『ぐえ』と哀しい音をたてる。
「ななし!」
安否を確認しようと叫んだ声に、反応したのは魔犬の方だった。転がった四郎を追撃して、気味の悪い四肢で四郎に覆いかぶさろうとする。真横の畳に、どん、と衝撃がきて、腐りかけた床が高い軋みを上げた。
それをまた転がってなんとかよけながら素早く体を起こすと、四郎がいる方とはまったく別方向のところでななしがひしゃげた頭を治しているのが見えた。
「ななし! 蟲毒や!」
犬をひきつけている内にお前が探せ、と叫んだ四郎に、ななしははっと気づいて頷く。まだ多少、頭はへこんだままのようだったが、すばやい動きで襖をすり抜けて隣の部屋へと消えた。
それを追おうとした犬に咄嗟に足払いをかけ、四郎は崩れた体制を立て直す。
同じように、一瞬で立ち上がった魔犬が、先ほどの以上の殺気を込めて、四郎を睨みつけてくる……。
(……どうしたらええんや)
 腹の底から焦りと恐怖がこみ上げ、熱された鉄つぼのようになった頭をどうにか冷やそう、と思うが、うまくいかない。考え、られない。
 避けるのにも、限界がある。なんら体術を習っているわけでもない。四郎の動きなど、何の苦労もなく捉えられるだろう。だが、時間は稼がねばならない。こんなことなら柔道の授業でも、もっと真面目に受けとくんやった……!
――――二撃目がきた。
考えることにばかり集中していた四郎は、正面から飛び掛ってきた魔犬にのしかかられ、もんどりうって畳に倒れる。
凄まじい力で喉笛に食らいつこうとする首を咄嗟に下から押さえつけ、自由になる足で激しく腹を蹴り上げた。何度も、何度も。
黒いバケモノは、びくともしない。
腐臭を放つ口からよだれを垂れ流しながら、血走った目で今にも四郎を噛み砕こうと力を込めてくる。床がしなって、体の骨と筋肉がぎしぎしと音をたてる。このままでは力の拮抗(きっこう)は、すぐにでも崩れてしまいそうだった。
(や、やられてまう……っ)
考えろ、と焦った頭で必死に策をめぐらせた。どうすればいい。何をすれば退けられる。
妖を退ける方法。退去させるにはどうすれば。何か。何でもいい。……清められた、何かを。
(―――――――塩や!!)
家を出る直前にお守りに、と思って一掴みビニール袋に忍ばせた塩の存在を思い出し、四郎はこれでもか、というほど両足に力を込めて犬の腹をもう一度蹴り上げる。
一瞬食いつこうとする力が弱まり、だらだらと大量のよだれが顔に滴り落ちるが、かまわず顎を押さえる手を片方はずして素早くジーンズの尻ポケットに突っ込んでいたビニール袋を引っ張り出す。口にくわえて端を破り、手で塩を掴み取って一気にバケモノの鼻面に投げつけた。
『ぎゃうぅんっ』
こちらが痛くなるほどの凄まじい声を上げて、バケモノが後ろに仰け反る(のけぞる)。その隙をついて四肢を払いのけ、その牙から逃れた。
みっともなく震える足を必死で立て直しながら襖に近寄り、開くと、ちょうど床下から小さな箱のようなものを咥えてななしがあがってきたところだった。
『殿っ! これですぞ』
「よっしゃ、よこせ!」
口でぶん、と投げてよこした小箱を両手で受け取り、四郎は背後を振り返る。そこには、すでに塩の衝撃から立ち直った黒い魔犬が立ちはざかっていた。
その飢えた目を真正面からしか、と捉え、
「死にさらせ、くそ犬―――!」
叫ぶとともに、渾身の力で襖の敷居へと叩きつけた。
意外と軽い、箱が砕けた渇いた音が響いた。一瞬、耳が痛いほどの静寂がその場を支配する。
――だが、その次の瞬間。狂おしいほどの歓喜を込めた咆哮と、眩しいほどの蒼白い光が高らかに伸び上がり、屋敷内を駆け巡った。

――――解放サレタ――――!

そう叫びながら狂い舞う"おとろしさん"と呼ばれた哀れな呪詛の道具は、蒼白い一筋の光となって屋敷に吹きだまる一切の暗い闇を払い回る。
そうすることが、せめてもの報復だとでも言うようにひとしきり飛び回り、気づいた時にはどこかへと消え去ってしまっていた。
(…………。災難やったな。……あいつも)
その蒼白い光の尾を見ながら、四郎は思う。呪詛の内にあったとはいえ、仲間を共食いしたあの妖魔は元のようには暮らせまい。元から食い合う性であったのならばまだしも……。
「…………。とにかく無料奉仕完了……」
ぜいぜい、と肩で息をしながら、四郎はどこか気の抜けた声でぼそり、と呟き、だらしなく床へと座り込んだ。

§
いつの間にか、雨は上がっていた。
いまだ夜が明けないままに屋敷の外に出た四郎たちを、古びた門前で迎える者がいる。
……あの男だった。
「……やぁ。初めまして」
紳士的な笑みを貼り付けながらも、どこか作り物めいた仕草で会釈する男を、四郎は剣呑な視線でにらみつけた。
「おやおや。そんな顔をしないで欲しいなぁ。せっかくの玩具を壊されて哀しいのは僕の方なんだから。……あれはまだ育てはじめて間もなかったのに」
実に残念だ、と呟く男の口調は、しかしまったく残念そうではなかった。
むしろ、嬉しそうでさえ、ある。
無言で自分に対峙する少年を上から下まで吟味するように眺めながら、男は口の端を左右に引き上げて呟いた。
「……君は……見える者。――見鬼(けんき)か。ふぅむ。あの子も面白い友達を持っていたものだねぇ」
そうしてなおも嬉しそうに頷きながらひょい、と踵(きびす)を返した。黒いコートが、それに合わせてひらり、と翻(ひるがえ)る。そのまま、行ってしまおうとする男に、思わず四郎は呼びかけた。
「おい、あんた……」
その声に一瞬足を止め、やがて首だけを回して男は「またねぇ」と呟いた。
そしてまたくるり、と頭を前に向けると、ゆっくりと歩き出しながら穏やかな声だけを残す。
「今回は……あの男の子は見逃してあげるよ。特別サービスだ」
――――もっと面白いものを、僕に教えてくれたからねぇ。
心の中でそう呟いて、男は雨があがったばかりの夜の闇に溶けていく。
その背中が跡形もなく消えうせた時、ようやく呪詛のすべてが終わったのだ、と思った。
新しい玩具を見つけたような顔で自分のことを見た男の顔には、ぞっとしたものが残るけれど。
死ぬこともなく、生きている自分と、どうにかこうにか難を逃れた蛙がここにいる。
まぁ、それでええか。
そう思ってひょい、と見ると、隣ではななしがしきりに首を傾げていた。
「……どないしたんや」
『……いえ。"おとろし"とは、結局なんの事であったのか、と思いまして』
すっきりしない、という顔でそう呟くななしに、四郎は力の抜けた笑みを浮かべた。
「なんや。そんなことか。それなら簡単や。おまえ、元々はこの辺の生まれやないんか?」
『はぁ。最近ひょんなことから北より流れて参りまして……この屋敷に居を構えたばかりで』
「…………て、ここ。お前の住処か、おい」
『は』
半眼で突っ込まれ、またいらぬ口を滑らせてっ、と悶絶する蛙に「まぁもうええけど」と呟きながら四郎は教えてやった。
「おとろし、ていうのはな。この地方の古い方言や。じいちゃんばあちゃんくらしか使わへんから、知らんやつも多いけど。元の言葉は"恐ろしい"。それがなまって"おとろし"。あいつら二人は、名前からして恐ろしいものですよ、って言われてるもんのところに突っ込んでいった、ってわけやな」
時に、無知ってのは罪や、と呟いた四郎に、ななしは神妙な顔で『まったく左様でございますな』と頷いた。